博物館の資料に見る
『
風林火山
』
の世界
1:山本勘助の姿
武田信玄の伝説的な軍師として名高い山本勘助は、その容姿も異質なものがありました。隻眼で、しかも片足が不自由というハンデを持っていたといわれています。武田家の前に仕官を望んだ今川家では、今川義元にその容姿を嫌われたために仕官がかなわなかったと『甲陽軍鑑』などで伝えられます。
しかし、「片目」というだけで、どちらの目が見えなかったのか、定かではありません。そのため、江戸時代以降に勘助を描いた絵画は、右、左どちらのタイプもあります。
また、歌舞伎などにも頻繁に登場するため、勘助に扮した役者の絵画なども見られます。
江戸時代の人々は、勘助にどのようなイメージを抱いていたのか、その姿をご紹介します。
左:歌川芳勝 甲越武勇伝のうち 山本勘助
右:狩野了承 山本勘助像
『甲越武勇伝』では、山本勘助について、次のように説明しています。
「三州牛窪の産にて智謀武略遠近に轟(とどろ)き、人摩利支天将と称しける。川中嶋戦に過(あやまっ)て謙信に破られしを怒り、血戦して遂に討死す。」
歌川国芳 永禄四年九月川中島大合戦 山本勘助入道晴行小高き丘に馬蹄をやすむる図
歌川国芳 川中島大合戦 備を立直す図
歌川芳虎 永禄四年九月信州川中島大合戦 朝霧ふかく立ちおほふの図
歌川芳綱 川中島勘助勇戦図
歌舞伎役者が演じる「勘助」
左:豊原国周 役者絵川中島合戦(部分)
右:歌川豊国 東海道五十三次之内 御油 山本勘助
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