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第16回展示紹介人物

塚本定右衛門の顔写真と言葉



塚本 定右衛門


プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3 展示資料解読

・プロフィール
【人物の氏名】

塚本 定右衛門
つかもと さだえもん
Tsukamoto Sadaemon

【生没年】
文久元年(1861)生まれ 昭和23年(1948)死去

【出身地】
近江国神崎郡川並村(滋賀県東近江市)〈その他〉

【パネルの言葉を残した背景】
定右衛門が山梨を訪れた際に、同行していた先代定右衛門である父定次(さだじ)が詠んだ歌。歌に込められている、祖父が創業した土地である山梨の風土への思いは定右衛門にも受け継がれ、30年を経て水害に苦しむ山梨へ「塚本山」が贈られた。

【人物の解説】
塚本家は近江商人である初代久蔵が甲府柳町にて文化9年(1812)に創業した小間物問屋「紅屋」以来、衣料品や繊維関係を取り扱う商家で、初代が出身地の近江国神崎郡川並村(現在の東近江市)に拠点を移し、以来代々定右衛門を名乗ってきた。三代目定右衛門(定治、幼名は定次郎)は二代目定右衛門(定次)の子として生まれ、父や叔父とともに家業の拡大に勤しんでいた。家業の一方で、滋賀県の学校建設費や治水費への寄付を継続して行い、特に治水関係の寄付は莫大な金額に上った。山梨県においても、明治40・43年の大水害が未曾有の被害をもたらし、治山の重要性が高まったところで、皇室財産となっていた山林約29万町歩が県に御下賜されることとなった(「恩賜林」の成立)。そこで定右衛門は父祖が関わったゆかりの地である山梨県の惨状を憂い、山林の植林復興事業費として1万円(現在の価値で約1億円)を山梨県へ寄贈した。この資金を元に植林された山林は「塚本山」と名付けられ、以来およそ100年、山梨の山林の復興の象徴的かつ見本的な存在として大切にされている。


・年表

年代 出来事
文化9年
(1812)
祖父の初代定右衛門が甲府柳町に小間物商「紅屋」を創業
文政9年
(1826)
家業の本拠を近江国神崎郡川並村(現在の滋賀県東近江市)に移転
その後、京都、東京などへ進出
文久元年
(1861)
川並村(現在の滋賀県東近江市)の商家に生まれる
明治5年
(1872)
東京の日本橋に本拠を移転
明治9年
(1876)
父の先代定右衛門と山梨県を訪れる
明治18年
(1885)
定右衛門を襲名
明治22年
(1889)
家業を塚本商社(現在の株式会社ツカモトコーポレーション)に改称
明治23年
(1890)
東京本店総支配人となる
明治40年
(1907)
大水害を被災した山梨県甲府市に見舞金200円を贈る
明治44年
(1911)
明治40・43年と続けて大水害を被災した山梨県に植林費1万円を贈る
この際、甲府市の豪商大木喬命が仲介となる
明治45年
(1912)
熊谷喜一郎知事から礼状贈呈
大正元年
(1912)
寄付行為に対して宮内省賞勲局から金杯を授与される
大正2年
(1913)
東山梨郡三富村上釜口中ノ沢に植林開始し、「塚本山」と命名される
塚本商社甲府店を東京本店に統合
大正4年
(1915)
植林事業完成
大正5年
(1916)
「塚本山」を保安林に指定
大正9年
(1920)
株式会社塚本商店に改称
家督を4代目に譲る
大正11年
(1922)
甲府市柳町の創業地を甲府市へ寄贈
大正12年
(1923)
関東大震災により東京本店の倉庫と商品を焼失するも年末に営業再開
昭和17年
(1942)
戦時統制により、衣料品の営業活動を停止
昭和23年
(1948)
逝去
昭和26年
(1951)

恩賜林御下賜40周年に際して山梨県から感謝状贈呈

   


・エピソード1
【甲州商人にもなった近江商人塚本家】

祖父の初代塚本定右衛門は近江国神崎郡川並村(現在の滋賀県東近江市)出身で、小町紅(こまちべに)(当時の口紅の一種)を行商する近江商人としてスタートし、文化9年(1812)に商圏であった甲府で小間物問屋紅屋を創業する。その後紅屋は天保期に京都に進出し、大名家へ献金するほどの大商家へと成長していくが、塚本家の商家としての創業地が甲州であったことが、3代塚本定右衛門が「塚本山」を寄贈する素地となっていた。


紅屋塚本家が出店した柳町四丁目附近(「実測甲府市街全図」当館蔵より)
紅屋塚本家が出店した柳町四丁目附近(「実測甲府市街全図」山梨県立博物館蔵より)


・エピソード2
【明治40・43年の大水害と「塚本山」】

塚本家が甲州の地で創業してから100年を迎えようとした時、山梨県は明治40年、43年と深刻な被害を出した水害に遭う。三代目塚本定右衛門はこれまでも出身地である滋賀県を中心に、水害などの被害地へ治水費の寄付を繰り返してきたが、創業地である山梨県の惨状にも心を痛め、水害の原因ともなった山の荒廃を復興する費用1万円の寄付を決める。換算基準にもよるが、これは現在の約1億円という大金であり、これを受けた山梨県議会は明治44年(1911)12月、満場一致でこの寄付を受け入れ、翌年東山梨郡三富村上釜口中ノ沢(現在の山梨市)への造林が決定する。
造林予定地には恩賜林のほかに私有地が含まれていたが、この土地の所有者は、塚本定右衛門の厚い志に感銘して土地の寄付を申し出て、さらにその翌年には植林作業が開始される。造林地には杉・檜・落葉松46万本が植え付けられ、山梨県恩賜県有財産(恩賜林)の見本的な山林として成長し、現在に至っている。
山梨市三富上釜口の塚本山には、塚本定右衛門の寄付を顕彰する碑が大正6年(1917)に建てられ、現在も塚本山の中央に立ち、定右衛門の功績を伝えている。


<熊谷喜一郎知事からの私信による御礼状(部分)>
今回ハ御他念之為メ植樹費トシテ金壱万円御寄附相成県会ニ於テモ感謝之意ヲ以テ之ヲ可決致シタル次第ニて将来実施上ニ於テモ貴意ノ在ル所ヲ失ハサル様充分注意可致旨夫々訓戒致置候(株式会社ツカモトコーポレーション蔵)

<現代語要約>
今回は山梨県のことを気にかけて、植樹費用として1万円をご寄附くださりましたが、県議会においてもご寄附を感謝とともにお受けすることに議決しました。将来植樹を行う上でも、あなたの貴重なお気持ちに反することが無いよう、しっかりと関係者に戒めつつ伝えました。


<「塚本山碑」碑文>
塚本山碑
我山梨県累年蒙水害 先帝憫其民力困弊乃明治
四十四年三月拝下賜皇室料約三十萬町歩於本県
之 恩命而滋賀県人塚本定右衛門氏深感 聖旨
之優渥又憶嘗以商事往来於本県乃寄私財一萬円
以資治山治水之費於是相地於恩賜林之一部命名
塚本山自大正二年経三年間樹杉檜落葉松四十六
萬株欲以保護笛吹河源以示植林之範以為恩賜林
善後経営之一助矣乃刻石傳諸後昆
大正六年十一月    山梨県

<現代語要約>
塚本山の碑
私たち山梨県は何度も水害が起こり、明治天皇は山梨県民の生活が困っていることを気の毒に思われ、明治44年(1911)3月に皇室の財産となっていた山林を山梨県にお譲りくださいました。このことを、滋賀県の人である塚本定右衛門氏が明治天皇の思いに深く感激し、かつて商売のためにやって来たことがある山梨県のために1万円を寄付し、水害が起きないように山や川を整備する費用に使うように申し出ました。その1万円で整備された恩賜林の一部であるこの山を「塚本山」と名付け、大正2年(1913)から3年間、スギ・ヒノキ・カラマツ46万本を植えて、笛吹川の源流を保護するようにしました。この山林は、山梨県の植林の模範となり、恩賜林のよりよい経営の助けとなるでしょう。このことをこの石に刻んで、未来の人々に伝えたいと思います。
大正6年(1917)11月      山梨県

建てられたころの「塚本山碑」(「山梨県直営塚本山造林実施概要」山梨県立博物館蔵より)
建てられたころの「塚本山碑」(「山梨県直営塚本山造林実施概要」山梨県立博物館蔵より)


・エピソード3
【甲府の豪商・大木喬命との関係】

塚本定右衛門の寄付の申し出にあたっては、甲府横近習町の豪商大木喬命の仲介があったとされている。大木家は「おふどう」とも呼ばれた呉服商を営む甲府の大商家であったが、甲府柳町に紅屋を構えた塚本家とは古くから交流があり、「紅屋翁媼」(昭和10年)には、塚本家初代の定悦が大木喜右衛門から、次のような商売のアドバイスを得たと記している。

「定悦は、甲府の得意先なる大木喜右衛門に商売の秘訣を尋ね、『勤倹にして顧客の利を計れ』といはれたことを、深く肝に銘ぜられた。後年、嗣子定次の謂はゆる薄利廣商の標榜は、恐らく、是に起因したものであらう、とおもはれる。」

塚本と大木両家の交流は近代に入っても続き、大木家の資料(山梨県立博物館蔵)には、紅屋に関する資料や、大正時代の塚本家との布地の取引を示す書類、塚本家が柳町に持っていた地所の管理を大木家が代理していたことを示す書類などが残されており、当主の大木喬命は、塚本定右衛門の寄付に対する県の臨時直営造林計画調査委員を務めてもおり、「塚本山」が成立するために、縁のある甲府の大木家が一定の役割を担っていたことがうかがえる。

<3代定右衛門の叔父正之から大木喬命にあてた塚本山に関する書簡(部分)>
偖恩賜林中三富村ニ於而県庁直営四ヶ年支弁本年分五十余町殖林着々進捗之趣御洩被下忝不日拝顔之節者猶委敷御聞セニ預リ可申与存居候、且又信太様滋賀江御転任ニ附御添心之件出津之節御面会相願御聞ニ預リ可申与奉存候、先者右御返事旁御礼迄如斯ニ御座候 恐々頓首
六月廿二日  塚本正之
大木喬命様 尊酬
二白
殖林地ヲ塚本山ト御名命之由可相成ハ該地ニ因ミ有名前ニ御改称相願度皆々申居候、自然御聞済被成下候ハヽ忝奉存候、乍恐宜敷御配慮願上候
廿二日

<現代語要約>
さて、恩賜林のなかの三富村(現在の山梨市)の区域において、山梨県庁が立てた4年計画の今年の分である50町歩あまりの植林作業が着々と進んでいるとのこと、お知らせくださりありがとうございます。近いうちにお会いした時には、さらに詳しい話をお聞かせください。(県庁の)信太様が滋賀へご転勤とのことですから、ご配慮いただいている件については、(滋賀県庁のある)大津に出向いた際にお会いしてお聞きしたいと思います。まずはお返事ついでに御礼を申し上げます。
6月22日 塚本正之
大木喬命
追伸
植林地を「塚本山」と名付けるとのことですが、なるべくはご当地にゆかりのある名前の方が良いのではと塚本の者たちは申しております。ご検討いただければ幸いでございます。恐縮ですがご配慮くださいますようよろしくお願いします。
22日


植林間もない「塚本山」(「山梨県直営塚本山造林実施概要」山梨県立博物館蔵より)
植林間もない「塚本山」(「山梨県直営塚本山造林実施概要」山梨県立博物館蔵より)


・展示資料解読
【熊谷喜一郎(山梨県知事)差出塚本定之宛書簡 ツカモトコーポレーション蔵】


<解読文>
拝啓未タ拝晤
之機ヲ得ズ候得共、
益御清福恭賀之
至ニ奉存候。陳者
今回ハ御他念之
為メ、植樹費トシテ
金壱万円御寄
附相成、県会ニ於テモ
感謝之意ヲ以テ
之ヲ可決致シタル
次第ニて、将来実施
上ニ於テモ、貴意ノ
在ル所ヲ失ハサル様
充分注意可致旨、
夫々訓戒致置候
間、左様御承知
被下度、何レ改メテ
謝状差出候筈
ニ候得共、不取敢
右御礼申述千萬
如此ニ御座候。
本日ハ見事ナル
御紀念品御送付
被下、御厚志難有
奉存候。
(略)

<書簡の内容>
拝啓 いまだにお会いする機会を得られないでおりますが、あなたさまの幸いについてお祝いの意を申し上げます。
お手紙の用件ですが、今回はよその山梨県のために、植林費用として金一万円(現在の貨幣価値で約一億円)を寄付していただき、県議会でも感謝の意を表明しつつ、受け入れさせていただくことを議決したところでございます。
今後、寄付金に基づいて植林を進めていく段階におきましても、あなたの貴重なご意思にそむくことのないように、十分に注意することを関係各所に指示しましたので、ご承知いただきたく存じます。
もう少し先になりましたら、改めて感謝状を差し上げることとなりますが、まずはお礼をお伝えしたい気持ちが大きく、このように筆を執らせていただいたところでございます。
また、本日は大変結構な記念品をお送りいただきまして、本県に対する厚いおこころざしをありがたく感じております。
(略)


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