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第13回展示紹介人物

土屋龍憲の顔写真と言葉



土屋 龍憲


プロフィール 年表 エピソード

・プロフィール
【人物の氏名】

土屋 龍憲
つちや りゅうけん
Tsuchiya Ryuken

【生没年】
安政6年(1859)生まれ 昭和15年(1940)死去

【出身地】
甲斐国八代郡下岩崎村(甲州市)〈峡東地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
共に渡仏した高野正誠とともに記した盟約書の一節。ブドウ栽培とワイン醸造の技術伝習のため、1年間ですべてを学び取ろうという強い決意で海を渡ったことがうかがえる。

【人物の解説】
土屋龍憲は、名前を助次郎ともいい、八代郡下岩崎村の土屋勝右衛門の長男として生まれる。父・勝右衛門は、のちに大日本山梨葡萄酒会社を立ち上げる発起人のひとり。明治10年(1877)、上岩崎村の高野正誠とともに、わが国最初のワイン醸造などの調査のためにフランスへ留学。さまざまな技術を山梨に持ち帰り、山梨県のブドウ栽培やワイン醸造の発展の基礎を築いた。

・年表

年代 出来事
安政6年
(1859)
甲斐国八代郡下岩崎村(現在の甲州市勝沼町)に生まれる
明治10年
(1877)
大日本山梨葡萄酒会社設立
  高野正誠とともに前田正名(パリ万博事務官長)に従いフランスへ留学
  フランス・トロワ市にて、ブドウ栽培・ワイン醸造について学ぶ
明治12年
(1879)
帰国
明治14年
(1881)
第2回内国勧業博覧会に葡萄酒を出品(入賞)
明治15年
(1882)
家督を相続
明治19年
(1886)
大日本山梨葡萄酒会社解散
  宮ア光太郎と甲斐産葡萄酒醸造所を設立
明治21年
(1888)
東京に甲斐産商店を設立
明治24年
(1891)
甲斐産商店から退き、宮崎との共同経営解消
明治27年
(1894)
東八代郡会議員に就任
明治28年
(1895)
第4回内国勧業博覧会に赤白の葡萄酒を出品(入賞)
明治32年
(1899)
この頃、葡萄酒貯蔵庫(龍憲セラー)を建設
明治34年
(1901)
祝村村長に就任
明治39年
(1906)
勲七等に叙す
明治40年
(1907)
村会議員に就任
  その後、山梨銀行、峡東銀行などの経営にも関わる
昭和15年
(1940)
逝去
   


・エピソード
【1年限りのワイン留学】

土屋龍憲高野正誠とともに経験した日本最初のワイン留学は、明治10年(1877)10月10日に横浜を出帆し、明治12年(1879)5月8日に帰国して同地を踏むまで、およそ1年半にわたるものだった。ふたりは渡航するにあたって、送り出す大日本山梨葡萄酒会社と1年で修業を完了させる「盟約書」を取り交わし、後に山梨県知事となる薩摩(鹿児島県)出身の前田正名とともにフランス船タナイス号に乗船した(前田はパリ万国博覧会事務官長として赴任)。
香港、セイロン、スエズ運河などを経由する1か月半の船旅を過ごしたすえにフランスに上陸、マルセイユからパリを経て、シャンパーニュ地方のトロワ市で、その修業生活が開始された。トロワ市での修業は1シーズンと少しという、大変時間が限られたものだったが、前田と縁のあった農学者かつ苗木商のシャルル・バルテの紹介でピエール・デュポンが指導にあたり、ブドウの剪定や挿し木、接ぎ木、収穫といった栽培法や醸造法を習得すべく、その実技の実践と理論の研究やスケッチに昼夜を分かたず勤しんだとされる(前田は先の渡仏でバルテらからブドウの苗木を大量に買い付けて輸入しており、これらを内務省勧業寮三田育種場を通じて日本国内に配布し、ブドウ栽培の普及を図っていた)。
帰国したふたりは、1年とされていた留学期限の延期を責められ、ワイン醸造も商業的に順調にはいかなかったが、ブドウ栽培とワイン醸造の先進地で学んだノウハウは着実に山梨のブドウとワインの力を向上させ、のちにマスカット・ベーリーAを開発した新潟県の川上善兵衛(岩の原葡萄園を開き、「日本のワインぶどうの父」と称される)も土屋のもとに技術習得に訪れるなど、わが国のワイン産業の向上に大きく貢献した。

龍憲セラー(甲州市勝沼町)の画像
龍憲セラー(甲州市勝沼町)


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