石橋 湛山
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
石橋 湛山
いしばし たんざん
Ishibashi Tanzan
【生没年】
明治17年(1884)生まれ 昭和48年(1973)死去
【出身地】
東京府芝区(東京都港区)〈その他〉
【パネルの言葉を残した背景】
大正10年(1921)の石橋による『東洋経済新報』の社説。植民地支配や中国との
対立を招く大日本主義は、経済面や民族自決の潮流からも、まったく利益が得られないことを喝破している。
【人物の解説】
幼児期から高校生までの間を山梨で過ごし、早稲田大学を経て『東洋経済新報』に入社、同誌にて「小日本主義」を展開した気骨の言論人である。戦後に政界入りし、第55代内閣総理大臣となるも直後に病で倒れ、在任期間65日間で退陣する(現行憲法下歴代2番目の短命内閣)。回復後は、訪中して周恩来首相と会談するなど、中華人民共和国との国交回復に尽力した。
・年表
年代 |
出来事 |
明治17年
(1884) |
東京府(現在の東京都)の杉田家に生まれる(幼名は省三〈せいぞう〉、母方の石橋姓を継ぐ) |
明治18年
(1885) |
父・杉田湛誓の昌福寺住職就任に伴い、西山梨郡稲門村(現在の甲府市)に転居 |
明治24年
(1891) |
南巨摩郡増穂村(富士川町)の昌福寺に転居 |
明治27年
(1894) |
中巨摩郡鏡中条村(南アルプス市)の長遠寺住職望月日謙に預けられる |
明治28年
(1895) |
山梨県立尋常中学校(旧制甲府中学校)に入学
この年、『東洋経済新報』創刊 |
明治34年
(1901) |
甲府中学校校長に大島正健就任 |
明治35年
(1902) |
名を湛山に改める
山梨県立第一中学校を卒業 |
明治36年
(1903) |
早稲田大学高等予科に入学 |
明治41年
(1908) |
東京毎日新聞社に入社(翌年退社) |
明治44年
(1911) |
東洋経済新報社に入社 |
大正13年
(1924) |
東洋経済新報社第5代主幹に就任 |
大正14年
(1925) |
東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任 |
昭和16年
(1941) |
東洋経済新報社代表取締役社長に就任 |
昭和20年
(1945) |
東京大空襲により東京都芝の自宅焼失
東洋経済新報社の編集部門を秋田県横手町に疎開 |
昭和21年
(1946) |
戦後初の総選挙に出馬し落選するも、第一次吉田内閣の蔵相に就任
東洋経済新報社社長を辞任 |
昭和22年
(1947) |
第23回衆議院議員総選挙に静岡県第2区から出馬し当選
公職追放となり、蔵相を辞任 |
昭和26年
(1951) |
公職追放解除となり自由党に復党 |
昭和27年
(1952) |
立正大学学長に就任(昭和43年まで) |
昭和29年
(1954) |
鳩山一郎内閣の通産相に就任 |
昭和30年
(1955) |
自由民主党の結党に参加 |
昭和31年
(1956) |
第2代自由民主党総裁となり、第55代内閣総理大臣に就任 |
昭和32年
(1957) |
病気療養のため、総理大臣を辞任(在任期間65日間) |
昭和34年
(1959) |
訪中し、毛沢東、周恩来らと会談 |
昭和38年
(1963) |
第30回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退 |
昭和48年
(1973) |
逝去、遺骨の一部は身延山久遠寺に分骨 |
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・エピソード1
【「一生を支配する影響を受けた」大島校長との出会い】
石橋湛山は、幼少時から大学進学までの期間を山梨県で過ごした。山梨時代の石橋が、自ら「一生を支配する影響を受けた」(『湛山回想』)と言っているのが、県立甲府(第一)中学校(現在の県立甲府第一高等学校)での大島正健校長との出会いである。
大島正健は相模国高座郡中新田村(神奈川県海老名市)生まれの農学者で、札幌農学校の第1回卒業生として、ウィリアム・S・クラーク博士の薫陶を受けた人物だった。クラークは大島ら生徒には「Be gentleman(紳士であれ)」とだけ求め、札幌を去るにあたって「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」の有名な語を残した。大島は、こうしたクラークのエピソードを石橋ら生徒に伝え、間接的にクラークの薫陶を山梨県の子弟にもたらした。
石橋はこうした民主主義教育の実践者であるクラークの教育者としての姿に感動し、クラークの肖像を自室に飾り続けたという。なお、リベラルな言論人としての石橋の思想形成に影響を与えた大島・クラークとの出会いは、石橋が甲府中学で2回落第したために大島の赴任に巡り合えたことから成立している(石橋は甲府中学に2年早く入学しているので、結果的には年齢の辻褄があっている)。
母校の後身、甲府第一高校にある石橋揮毫の「Boys, be ambitious」の碑
・エピソード2
【「小日本主義」から「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」まで】
戦前のわが国は、日清・日露の2度の戦争を経験し、その結果台湾、朝鮮半島を併合し、東アジアにおいて軍事と経済の勢力圏拡大を志向する「大日本」への道を歩んでいた。世界屈指の軍事大国となりつつあった日本だが、大正時代には欧州を主戦場とした第一次世界大戦による大戦景気の影響もあって、国内には大正デモクラシーという民主的な風潮が広まりつつあった。そうしたなかで、「大日本」への道を批判するジャーナリストとして登場したのが石橋湛山である。
石橋の批判は、植民地経営などの帝国主義的政策を、主に経済的論点から分析して、純コスト的に負担の方が大きい「損」な政策であることを指摘した。また、朝鮮半島、中国大陸だけでなく、世界的に民族自決の風潮が拡大しており、国際関係的にも「大日本」の道は不利であることを明快に論じ、日本の進むべき道は植民地放棄・軽武装・門戸開放による経済発展からなる「小日本」であることを主張した。
その後の日本は、石橋の主張とは正反対の道を突き進み、対外的には泥沼の戦争を止めることができず、国内的には国民の生命と財産、精神の自由を押し潰していくことになる。そうしたなかでも、石橋は自ら筆をとる『東洋経済新報』を拠点に言論活動を続け、発行禁止処分や紙の減配などに遭いながらも、国民に不利益をもたらす戦争を継続する体制への批判を続けた。そして、昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏する。直後の『東洋経済新報』昭和20年8月25日号で石橋は、社論「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」と題し、この敗戦は新たな日本の建設に向けて何等の制約をもたらすものではないとし、民主国家としての「小日本」の再出発の前途は明るいものであると語った。石橋が描いていた「小日本」は、戦後の日本にようやくかたちを表していったのである。
甲府中学校時代に活躍した文芸上の舞台「校友会雑誌」(山梨県立博物館蔵)より
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