藤村 紫朗
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・プロフィール
【人物の氏名】
藤村 紫朗
ふじむら しろう
Fujimura Shirou
【生没年】
弘化2年(1845)生まれ 明治42年(1909)死去
【出身地】
肥後国熊本寺原瀬戸坂袋町(熊本県)〈その他〉
【パネルの言葉を残した背景】
明治6年(1873)4月20日に発せられた養蚕・製糸業を奨励する県布達の冒頭。藤村は学校・道路の整備をはじめとした山梨の近代化を推進する施策を展開し、勧業政策としては勧業製糸場や試験場を整備するなど、山梨の産業の発展に尽力した。
【人物の解説】
肥後国熊本藩の黒瀬家の次男として生まれる。嘉右衛門、平八、四郎などと名乗る。山梨県5代目の長官(当時の藤村は権令、のち県令となり、さらにのちに職制の変更により知事となる)として、大小切騒動後の混乱冷めやらぬ山梨県に着任。弱冠28歳の藤村知事は、勧業製糸場など産業の改良・奨励、学校・道路の整備推進を進め、山梨県の近代化に貢献する。その在任期間は14年にもおよび、戦前の官選知事のなかでは最長(戦後も含めると45〜48代の天野久知事の16年が最長)。当時、藤村の主導で整備された学校をはじめとする擬洋風建のことを特に「藤村式建築」と呼び、これら建築は、近代化していく山梨県を象徴する存在だった。
・年表
年代 |
出来事 |
弘化2年
(1845) |
肥後国熊本(現在の熊本県)の熊本藩士の家の次男として生まれる |
安政4年
(1858) |
萱野家の養子となる |
文久2年
(1862) |
藩主細川慶順(韶邦)に天下の形成を論じる書を提出
藩主の弟である長岡護美の上京に従う |
文久3年
(1863) |
八月十八日の政変に伴い、七卿落ちに同行して長州(山口県)に向かう |
この頃 |
脱藩する |
元治元年
(1864) |
長州軍とともに禁門の変で戦う |
慶応3年
(1867) |
大和国十津川郷の郷士の挙兵に参加 |
明治元年
(1868) |
藤村姓を称する
明治政府から徴士・内国事務局権判事に任じられる
北陸方面へ出征 |
明治2年
(1869) |
監察司知事として倉敷県(現在の岡山県など)へ出張
兵部省に転任
京都府少参事に転任 |
明治4年
(1871) |
大阪府参事に転任 |
明治6年
(1873) |
山梨県権令に就任
「物産富殖の告諭」を発する
「学制解訳」を発し、学校整備を推進する |
明治7年
(1874) |
「道路開通告示」を発し、道路整備を推進する
県内に村合併の推進に関する布達を発する(全国に先駆けて合併が進む)
甲府錦町に勧業製糸場を開設
権令から県令に昇任 |
明治9年
(1876) |
勧業試験場を甲府城内に開設 |
明治10年
(1877) |
甲府の一蓮寺で最初の県議会を開く
甲府錦町に県庁を新築開庁 |
明治11年
(1878) |
県庁新築費の増額の専断についての譴責を受ける |
明治12年
(1879) |
府県会規則に基づく県会議員選挙を実施 |
明治13年
(1880) |
明治天皇の巡幸を迎える |
明治14年
(1881) |
山林の官民有区分を実施 |
明治19年
(1886) |
地方官制の改正により県令から県知事となる(初めての山梨県「知事」) |
明治20年
(1887) |
愛媛県知事に転じる(翌年まで) |
明治23年
(1890) |
貴族院議員に就任 |
明治29年
(1896) |
男爵に叙される |
明治42年
(1909) |
逝去 |
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|
・エピソード1
【“青年知事”藤村紫朗着任・次々と新政策を展開―その1 勧業政策―】
明治6年(1873)1月、わずか28歳で山梨県の権令(現在の県知事)に任命された藤村紫朗。山梨県では前年に大小切騒動が起こり、前の県令(現在の県知事、権令よりも官位が高い)土肥実匡がその責任を取らされて更迭となり、新たな県の長官を迎えることとなったのである。藤村が着任する際の様子については、望月直矢の『峡中沿革史』に有名なエピソードが記されている。
<エピソード原文>
「県官及沿道村々ノ村役人等ハ新権令ノ赴任ヲ迎ヘンタメニ、予定ノ日ニ富士河畔ヘ赴キ居リシニ、権令ハ一僕ヲ従ヘ山駕籠ニ乗リ極メテ質素ニテ入県セシカバ、出迎人等ハ真逆権令トハ思ハザリシニ付、道々此ノ先ニテ権令ニハ逢ハザリシヤトノ訪ヲ受ケタルモ知ラズ知ラズトノミ答テ、一月三十日夜ヲ以テ甲府ニ着セリ。出迎ノ人々ハ件ノ事ヲ聞キ及ビ、一ハ大ニ狼狽シ、一ハ権令ノ平易質素ニ服サヽルハナカリシト」(『峡中沿革史』79〜80頁 適宜句読点を補充)
<エピソード現代語訳>
「県職員や沿道の村々の有力者などは、新しい県知事の赴任を迎えるために、赴任の予定日に水運の船着き場である富士川の河畔に集まっていた。ところが県知事である藤村氏は、従者の一人を伴って粗末な駕籠に乗って山梨県へとやってきた。県知事を出迎えに集まっていた人々は、この粗末な駕籠に乗ってきた人物を、まさか県知事ではあるまいと思い、藤村氏が甲府に向かう道々でも、人々は「県知事さんを見なかったか」と県知事である藤村氏に質問したが、藤村氏は「知らない。知らない。」とだけ答えて、1月30日の夜、藤村氏は県庁のある甲府に到着した。出迎えに出ていた人々は、この経緯を後から聞いて、ある人は大いにあわて、ある人は「県知事である藤村氏がふだんから質素にしている様子を見て、その藤村氏に従わないという人はいないのではないか」と語ったという。」
藤村権令を迎えるはずだった富士川水運の鰍沢の乗船場 山梨県立博物館蔵
着任した藤村は、次々と新たな政策を展開する。最初に打ち出されたのは、明治6年(1873)4月に発した「物産富殖の告諭」で示された勧業政策の推進である。
<「物産富殖の告諭」原文部分>
「蚕卵蚕糸ハ御国第一ノ名産ニシテ海外諸国ニ於テモ之ヲ愛重シ其利益不少、実ニ家ヲ興シ国ヲ富スノ良産ト云フヘシ
(中略 ※この部分で養蚕業の有利さなどを数的に説いている)
汝等聞スヤ天ハ幸福ヲ人ニ与ヘスシテ勉強ニ与フト、畢竟人ノ幸福ハ其身平常ノ働ニ依ル者ナレハ宜敷此道理ヲ悟リ遊惰ノ風ヲ去リ自カラ我身ヲ動カシ我身ヲ頼ミ家業ノ栄ヲ致シテコソ人ノ人タル道ニ適フト云フヘシ、猶追々職業引立ノ方法相設ケ可及布告候条荒蕪ノ地ハ精々勉メテ之ヲ開キ、唯桑ノミニ限ラス茶其外栽培等ノ事モ其益同理タレハ早々取調其段申出物産富殖土地繁栄ノ心掛肝要タルヘキ事
右ノ趣管内無洩相達ル者也
明治六年四月廿日 山梨県権令 藤村紫朗」
<「物産富殖の告諭」現代語訳>
「養蚕・製糸業は、日本で一番の生産物で海外でも需要があって、その利益は少なくないものがあります。まったく自分の家を大きくし、国の経済をも潤す素晴らしい産業というべきでしょう。(中略)
皆さんは聞いたことがあるでしょうか。神様は幸福を無条件に人に与えるのではなく、人の努力に与えるのだと。つまるところ、人の幸福は、それぞれのふだんの働きによるものだということですから、この道理をよく自覚して、怠けたりすることのないようにし、自発的に体を動かして、(他人をあてにするのでなく)自らを頼みにし、家の仕事の繁栄を実現することこそが、人間らしいやり方であると言えます。なお、近いうちに県内産業を振興する方法を設けてお知らせしますので、荒れた土地でも開墾につとめて、養蚕業だけでなく、(生糸に次ぐ輸出品である)お茶などの栽培も利益が高いことは養蚕業などと同じことですから、早く取り組みの準備を進めて県庁にもそれを申告し、産業の発展と地域の繁栄が一番重要であることをお心がけください。以上の内容を、県内各地へ漏れがないようにお知らせください。
明治6年(1873)4月20日 山梨県知事 藤村紫朗」
このように、藤村は県民に養蚕業を中心に産業を発展させるために奮起することを促す。奮起を促す材料は、この時期の勧業政策で特徴的に言われる、「自らを富ますことは、国をも富ますこと」という勧誘フレーズである。こうして藤村は着任早々に、山梨県の方向性を養蚕業を中心とした経済発展であることを明確に宣言して県民を鼓舞しつつ、この翌年に完成する勧業製糸場や、参事(副知事クラスの役職)の富岡敬明が取り組んだ日野原(現在の日野春開拓)、甲府城内に建設された勧業試験場など、具体的な勧業施策を推進していくことになる。
初期の藤村県政を象徴する勧業製糸場を描いた「山梨県甲府勧業場之図」 山梨県立博物館蔵
・エピソード2
【次々と新政策を展開―その2 道路整備―】
産業振興を目的とし、その成果である山梨県の製品を輸出するためのインフラ整備として、藤村は県内の道路整備にも力を入れた。そのことを宣言したのが、明治7年(1874)1月に発せられた「道路開通告示」である。
<「道路開通告示」原文部分>
「運輸ノ利往来ノ便ヲ開クノ世道ニ益アリテ、人間生ヲ営ムノ一大要務タル自他ノ交際ト物貨ノ流通トヲ拡充スルノ根拠ナルハ皆ナ人其理ヲ通暁セリ。熟々管下ノ実況ヲ視察スルニ、地味肥沃物産許多ナリト雖ドモ、四周ノ山岳崎嶮ニシテ舟車運輸ノ便行旅必由ノ道ナシ。是故ニ人智ノ開達ニ後レ物産ノ製造ニ疎ク毎ニ商法ノ機会ヲ誤ル者鮮トセズ。
(中略 ※山梨は山に囲まれているが京浜地域に近く、都留郡から横浜へのルートが有望と述べている)
果シテ此線路開通ノ功ヲ奏スルニ於テハ、運輸ノ便ハ自在ヲ得テ行旅必由ノ道トナリ、人智ノ開達亦何ゾ他邦ニ譲ラン。物産ノ製造商法ノ機転モ豈ニ時宜ヲ誤ルベケンヤ。是レ管下永世ノ繁栄民産富殖ノ根源又他ニ在ルベカラズ。啻ニ管下ノ幸福ノミナラズ広ク国家ノ公益タル復タ何ゾ疑ヲ容レン。然レドモ其事タルヤ重ク其業タルヤ大ナリ、独リ一二有志ノ力ヲ以テ容易ニ効ヲ遂グベキ所ニ非ズ。管下衆庶ニ於テモ、豈ニ彼ノ発起ノ有志ニ委シ其成否ヲ傍観スルノ理アランヤ。財アル者ハ財ヲ出シ財ナキ者ハ力ヲ致シ、全州一斉精神ヲ凝シ身力ヲ尽シ速ニ此大功業ヲ成就シ、彼ノ人工ヲ以テ天工ヲ変ジ、不便ヲ転ジテ大便利ノ地ト為サバ、人智随テ開ケ物産大ニ興リ行旅随テ集リ、商業盛ニ行レ汝等子々孫々永ク其余栄ヲ受ケ併テ邦家富強ノ基礎ヲ奉助ト謂フベシ。嗚呼管下三十余万ノ人民其レ能ク此ニ着目シ自カラ助ケテ永ク天助ヲ受ンコトヲ期シ自ラ奮テ已ム勿レ。而テ其開路方法ノ如キハ県庁既ニ反復推窮ノ際ナリ、各自ノ意見有之バ速ニ可申出事。
明治七年一月廿九日 山梨県権令 藤村紫朗」
<「道路開通告示」現代語訳>
「流通や旅行の利便が拡大していく世の中では道路の必要性が高く、生活上必要な交流や物流を広げていくために必要な手段であることは、誰もが良く分かっていることでしょう。山梨県内の状況を注意深く視察してみたところ、土地は肥えており、生産物もたくさんあるのに、周りの山が険しく流通や旅行に不可欠な道路がありません。このために産業の発展に必要な情報が遅れており、商売の機会を間違う人が少なくありません。
(中略)
思ったとおりにこの富士北麓地域から横浜への道路が出来れば、流通や旅行において不可欠な道となり、情報の流入や地域文化の発展も他の府県に負けなくなるでしょう。産業や商売上の判断も、タイミングを誤ることはなくなるでしょう。これは山梨県の永遠の繁栄や産業の発展の鍵とも言うべきものです。ただ山梨県のみが幸せなのではなく、日本全体の利益にもなることは疑いありません。しかし、道路建設は大変負担のかかる事業で、一部の有志の力で簡単に出来るものではありません。山梨県内のみなさんも、発起人にすべてを任せて、傍観者を決め込むことはいけません。資産がある人は資金を出し、資産がない人はなんらかの協力をして、山梨県が一丸となってこの大きな事業を成し遂げて、人の力で地理的な不便を解消し、不便を一転させて便利な土地にしていけば、文化も産業も発展して人々も集まり、商業的にも発展して、山梨県の次の世代たちへもその利益を伝えるとともに、我が国の発展の礎となることでしょう。山梨県30数万人の人々には、このことを踏まえてそれぞれが出来ることを尽して、天からの助けが得られるように、それぞれ努力を続けてください。道路の整備の方法については、県庁ですでにくりかえし検討しているところです。みなさんからご意見があれば、速やかにお知らせください。
明治7年(1874)1月29日 山梨県知事 藤村紫朗」
このように、道路建設の必要性を県民に訴え、主な建設資金は地元住民に負担させて、甲州街道や青梅街道といった主要な街道の整備や橋の建設などが進められた。
道路整備の推進によって架橋された亀甲橋(山梨市) 山梨県立博物館蔵
明治13年(1880)、明治天皇が山梨県を巡幸するが、この際には整備された道路が効果を発揮して、明治天皇の馬車などの通行が支障なく進んだ。この時供奉していた久米邦武が「山梨県ノ修路 山梨県ニ入テヨリ、道路修整、都留ノ隘篠子ノ険ノ如キモ、ミナ山ヲ夷シ河ニ橋シ、土木ノ功甚タ偉ナリ。蓋シ明治六年以来各郡村ノ民捐資協力シテ其役ヲ助ク。其竣功ハ去年ノ冬ニアリ。是ニ於テ山路十ノ七八ハ車行スヘシ。」(「巡幸日記」(『久米邦武文書 一』))とその道路整備の進みぶりを評価している。
しかし、県民の大きな負担を強いた道路整備は、その効果の面から疑問が呈される。山梨県内において積極的に道路整備が進んだものの、隣接する神奈川県(明治26年(1893)までは三多摩地域も神奈川県に所属)側の道路整備が一向に進まず、山梨の道路整備が大都市につながらない意味のないものになっていたからである。その状況は、「其開築ノ路線ハ同県管内ノ一部ニ止マリ他管ヲシテ此事業ニ及ス能ハス、故ニ甲斐国人民奮励奏功ノ業モ全ク其目的ヲ達スルヲ得ス、独リ道路開築ノミナラス是レカ為メ地方百般ノ事業ニ於テ常ニ其利害ニ関係ヲ生スル事少ナカラス、既ニ甲斐人民ハ奮励以テ甲州街道ノ一半ヲ開鑿シ馬車ノ往来物産ノ輸出入将来ノ便利ヲ開達スルモ神奈川県下ニ至リテハ道路開鑿ニ着手スル能ハス」「東海道東山北陸ノ内十県事情書」(『明治十五年明治十六年地方巡察使復命書 上』)というような状態で、それは次第に道路政策を推進していた藤村県令への不満というかたちをとるようになる。
「地方景況一班」(国立国会図書館蔵「三島通庸関係文書」、『山梨県史 資料編一四』収録)には、「甲州ニ入ルノ途中ハ目下道路開鑿ニ着手シ居ルヲ以テ、各自ノ困難ヲ嘆ジ不平ヲ鳴ス者多シ。到ル処県令ヲ誹罵シ道路ノ開鑿ノ負担ノ堪エザルヲ嘆ズ。」と報告され、藤村県令への不満は高まりを見せ、「松方デフレ」などによる不況や資金難もあって、藤村の積極的な開発行政は、行き詰まりを見せるようになっていくのである。
明治天皇巡幸の様子を描いた「諸国名所之内甲州猿橋遠景」 山梨県立博物館蔵
・エピソード3
【次々と新政策を展開―その3 学校建設・藤村式建築―】
「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事」の一文で有名な、わが国最初の近代的学校制度である「学制」(明治5年太政官布告第214号)が明治政府から発布され、全国各地に小学校などの整備が進められることとなった。
山梨県においては、藤村県令より「学制」を説明する「学制解訳」が発せられる。「学制解訳」によって、学校で学習することの重要性を説く一方で、県内各地に小学校の建設が進められる。
こうした学校も、地域に建設費を負担させて整備が進められ、その建築は一見西洋風の建物である「擬洋風建築」というもので、松木輝殷ら甲州の大工によって数多く建てられていき、県令の名前を冠して「藤村式建築」というようにも呼ばれるようになる。「藤村式建築」による学校は、5棟が現存しており、当時の人々に「近代」的なイメージを感じさせた特徴的な建築の様子を見ることが出来る。
<現存する「藤村式建築」の学校>
・旧睦沢学校(藤村記念館 甲府市)
・旧津金学校(須玉歴史資料館 北杜市)
・旧室伏学校(牧丘郷土文化館・道の駅まきおか 山梨市)
・旧舂米学校(富士川町民俗資料館 富士川町)
・旧尾県学校(都留市尾県郷土資料館 都留市)
・エピソード4
【後半の藤村県政】
華々しく数々の積極的な県政を展開した藤村であったが、後半の藤村県政は前半とは対照的に精彩を欠くものとなる。
自由民権運動の拡大による県政への批判の高まりや、我が国の財政の悪化やデフレなどによって直接的に資金をバラまく内務省の勧業政策が転換しつつあったことなどもあり、従来路線に乗っかっていた藤村の勧業政策も行き詰らざるを得なかった。
また道路整備の項にあるように、地域に整備費用を負担させることへの抵抗や、事業自体の失敗に対する反発も出るようになっていた。
そして、明治14年(1881)に、山梨県の山林の官民有区分が実施され、旧入会慣行のあった山林が官有地化し、草木の採取が従来通りできなくなったことも、藤村批判の材料となり、県民の不満の種となっていった。
明治19年(1886)に地方官の官制の改正があり、藤村県令は藤村知事となる。山梨県で最初の「知事」となったが、この時にはすでに県政運営の求心力もなくしており、その翌年愛媛県知事への転任が命ぜられ、14年間の長きにわたった県政運営に終止符が打たれた。
藤村の評判を記した「府県長官銘々伝」(明治14年) 山梨県立博物館蔵
・展示資料解読
【藤村紫朗差出藤村光子宛書簡 甲府市藤村記念館蔵】
<解読文>
四日の夜認めの文到着致披見候。
丈助昨夜まいり来家中にて、直
に聞取候訳には無之候得ども、明八日
同人帰場の節お柳同行、買物
は八代にて私が何もいたすに付、心配
せずと来れと申残し、用足しに出懸
けたるまゝいまだまいり不申。依てお柳へはまいる
方よろしからんと申聞置候。当地に於
て少々買物いたし度趣ニ付、右だけは
金を渡せと花へ申付置候。松村麻宿
処は天井も張り、一寸なかし等もこ
しらへたる由ニ有之候。実は兎羊熊
金の支払の事ニ付、表へも手紙つか
わし候ニ付、心配してかたかたお柳
むかいを兼ね、出掛け来りしものと
被相察候。兎に角一寸松村麻の方は
仰付可申候間、右ニ御承知置可被成候。
昨夜松浦夫婦づれにて一寸参り申
候。
和雄は昨日より学校始り出懸け為
候。
まづいそぎ右にて申上候。
一月七日 紫朗
お光どの
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