第14回展示紹介人物 |
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・プロフィール 【パネルの言葉を残した背景】
・エピソード1 【激動の前半生―若尾逸平一代図屏風に見る―】 若尾逸平は92歳(満年齢、数えでは没時94歳)の長命を保ったが、巨富の基礎を築いた前半生は激動のドラマであった。「若尾逸平一代図屏風」(中澤年章筆、南アルプス市春仙美術館蔵)には、そのような若尾の生涯が、成功と挫折を織り交ぜながら、ドラマチックな場面ごとに描かれている。 三曲一隻の「若尾逸平一代図屏風」には、右には江戸への出立、若松屋での出来事(最初の妻の不貞の現場の目撃など)、天秤棒を担いだ行商生活のスタートが描かれ、中央には小仏峠で夕立に遭って商品を駄目にしたり、笹子峠で追いはぎに遭ったり、ならず者に絡まれたりする「失敗」にまつわるシーンとともに、外国人との交易開始や、工女を集めて生糸の生産を始めたところをはじめ、「成功」にまつわるシーンが描かれている。 屏風の右と中央には、明治時代に入るまでの半生が描かれ、残る左には、明治時代に入ってからの、ある程度地位を築いてからの残り半生が描かれている。概ね時系列で下から上に向かって、大小切騒動の焼き討ち、弟幾造との分家、明治天皇山梨巡幸、貴族院議員としての演説、愛宕山への若尾公園および若尾逸平像建設、若尾銀行と本邸・晩年の若尾といった情景が描かれている。 このように、「若尾逸平一代図屏風」を見ると、壮年期に幕末の動乱のなかのビジネスチャンスに際会し、老年期に日本の近代国家建設と歩調を合わせて、「財閥」と呼ばれるまでに成長の階段を駆け上がった若尾逸平の生涯を見ることができる。そして、同時に山梨や日本が迎えた「明治」や「近代」という新たな時代の姿をも見ることができるのである。 山梨県立博物館シンボル展「生誕200年 若尾逸平」の情報ページ ・エピソード2 【「乗り物」(鉄道)と若尾逸平―鉄道敷設法と中央線の実現―】 若尾は根津嘉一郎に鉄道と電力への投資の有望性を説いたが、天秤棒を担いで江戸や横浜、信州を往来した若尾にとって、商業上の鉄道の有用性は、特に意識されるところであったことは想像に難くない。その若尾にとって、山梨に鉄道を敷くということは、やはり特別なテーマであった。 若尾は明治20年(1887)に、山梨・長野両県の有志とともに、甲信鉄道という鉄道計画を立ち上げている。 甲信鉄道は、官設鉄道東海道線(当時)の御殿場から籠坂峠を越え、富士山北麓を西に走り、鳴沢で向きを北に変えて鍵掛嶺を越えて、芦川沿いに甲府盆地に出たら、現在の身延線のようなルートで甲府に到り、最終的には長野県の松本を目指す鉄道であった。八王子からのルートよりも距離が近いものの、御坂山地越えに相当な技術的かつ資金的な問題が想定され、輸送力にも疑問があったことから、御殿場・甲府間の敷設許可は下りなかった。 私設鉄道として山梨に鉄道を敷くことには成功しなかったが、その後、若尾は中央線の建設を左右する立場に就くことになる。明治23年(1890)に貴族院多額納税者議員に選ばれた若尾は、鉄道会議の会議員のメンバーに入る。明治25年の鉄道敷設法によって、中央線は軍部の要請もあり「神奈川県下八王子((※))若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道」として、建設されることはほぼ決まっていた(※明治25年当時の八王子は神奈川県下)。しかし、その起点は八王子か御殿場かの調整がされていなかったので、諮問機関である鉄道会議に諮られることになった。 その会議において若尾は「(山梨の主要産物の)絹は中々手数の掛かるもので、東京に直に取引を致しますには、色々手数が掛かる。是非東京が近くならなければならぬとなる。生糸は横浜に直に着いた所が、山梨から八王子を経て東京を経て横浜へ行くも、御殿場を経て横浜に掛かるのも同等な道でありますが、東京には何廉便利がありますから東京に出る方が宜しい」と、山梨県経済の立場に立った発言を展開し、こうして、中央線は現在の八王子から西に甲府を目指すルートで建設されることに決定したのである。 御殿場から甲府を目指す甲信鉄道の線路図面(「甲信鉄道起業目論見書」山梨県立博物館蔵より) ・エピソード3 【「明かり」(電力)と若尾逸平―東京電燈の乗っ取りと山梨県での発電所整備―】 若尾が「乗り物」(鉄道)とともに有望な投資先とした「明かり」(電力)は、わが国での展開は鉄道よりも若干遅く、明治16年(1883)2月に日本で最初の電力事業者である東京電燈(現在の東京電力)が設立される。当初、照明としての電力需要がおもだったものが、工場や電気鉄道の動力としても使用されていくにつれて、電力会社の規模は次第に拡大していった。 このように業績を拡大し続ける電力会社に的を絞った若尾は、明治29年(1896)、山梨県中の資産家に号令を掛けて東京電燈の株式を買い占めていき、その経営権を手中に収めることに成功する。以後、昭和初期に至るまで、東京電燈は甲州(若尾)系によって、経営されていくことになる。 若尾の経営のもとの東京電燈は、拡大する電力需要のなかで、山梨県に大規模な水力発電所の建設を計画する。明治40年(1907)に完成した駒橋発電所は、桂川の水力の利用して15000キロワットの出力を誇り、東京に向けて55000ボルトの長距離高圧送電を開始した。従来、電力は需要地そばに火力等の発電所を置くことが一般的で、東京電燈の駒橋発電所は、こうした遠隔地に水力による大出力の発電所を築き、高圧で長距離を送電する事例の最初となった。このように、若尾は投資を通じて近代化していく社会の基盤形成に貢献し、その成果は私たちの暮らしに、今も生き続けていると言える。 水力発電時代を切り拓いた東京電燈駒橋発電所 山梨県立博物館蔵 上に戻る |