第13回展示紹介人物 |
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・プロフィール 【生没年】 【出身地】 【パネルの言葉を残した背景】 【人物の解説】
・エピソード1 【甲府勤番からヨーロッパへ】 甲府勤番の家に生まれた杉浦譲は、私塾で学んだのちに徽典館に入学する。徽典館では非常に優秀な成績を修め、文久元年(1861)には江戸に移り、幕府の外国奉行支配書物御用出役となり、開明的な官僚としてのキャリアをスタートさせている。 文久3年(1863)に、幕府はフランス人士官殺害事件の謝罪と、安政の5か国条約以来、外国に開かれていた横浜を再び鎖す交渉を行うため、池田筑後守長発を正使とする使節をフランスに派遣することとし、杉浦もその一員に選ばれた。この文久3年12月末の出発から4年7月の帰国までの池田使節団としての渡仏について、杉浦は「奉使日記」と題して克明に記録を残している。 この外交団の目的とされた横浜の鎖港は、フランス側の反対により、成果を挙げられずに終わり、関係者は処罰される。しかし、正使の池田をはじめ、田辺太一(外国奉行支配組頭・徽典館で杉浦の上役となっている)や杉浦らが海外の文物に触れたことは、彼らがその後の幕府や明治政府の近代化施策を支えていく人材になっていくうえで、大きな契機となっている。 この使節団については、はじめてエジプトのピラミッドとスフィンクスを見学した日本人であるということで有名である。使節団はインド洋からアラビア海、紅海、地中海を経由してフランスのマルセイユにいたるルートでフランスに渡ったが、当時はスエズ運河がまだ完成していなかったので、陸路で地中海の港町であるアレクサンドリアへと向かっており、その途中カイロに滞在している。 杉浦は「奉使日記」の文久4年2月21日の項に「寺外より望めハ市府一目了然にて、有名の巨恊l首の壮観も遥に見えり(文字は原文のママ)」とカイロ市街から見るピラミッド(巨怐jと人首(スフィンクス)の光景を記している。同28日には池田正使以下で見学に訪れ、杉浦は「巨恷O介あり、其形三角にて(大中小あり)何れも石築(石質御影石に似たり)大さ一隅六十丈、高も又同しといふ」とし、ピラミッドの材質や大きさ(1丈は約3メートル)について、緻密な考察を記している。 ピラミッドには現地人の案内で、登ったり中に入ったりした様子を記している。スフィンクスについては、「又三介恆Oに岩を彫りて作りし巨人の首あり、大さ四丈計もあるへく、肩より以下は砂中に埋没して見へす、是古昔何等の意を寄せしや測り難し」との感想を記している。 その後も慶応元年(1865)に清国上海に長州の軍船購入の暗躍に関する調査へ、慶応3年に徳川昭武に従いパリ万国博覧会へと出張し、幕府の外交官僚として数々の足跡を残している。そして、杉浦がこうした海外経験によって得た知見は、西洋の文物を導入していく近代日本の建設に携わっていくなかで、大変重要な経験となり、またこの洋行をともにした田辺太一や渋沢栄一との交流も、その後の杉浦の官界で活躍していくうえでの重要な財産となっていくのである。 フランスで撮影した洋装の杉浦の写真 山梨県立博物館蔵 ・エピソード2 【日本の郵便制度をスタートさせる】 幕府の崩壊後、徳川宗家は静岡へと移り、杉浦も徳川宗家を継いだ徳川家達に従い、静岡藩の学問所の教授などを務めていた。明治3年(1870)に明治政府に出仕することとなり、前島密とともに郵便事業の準備にとりかかる。 前島は越後国(現在の新潟県)出身の旧幕臣(もとは豪農の家に生まれ、前島家に養子に入る)の官僚で、租税権正と駅逓権正を兼任していた。 前島は明治3年(1870)6月 に、太政官へ官営郵便事業の創設を建議し採択されたものの、その直後にイギリスへの出張が命ぜられる。前島の後を引き継ぎ、官営郵便事業を実施に漕ぎつけたのが杉浦である。杉浦は駅逓権正に就任し、前島不在中の官営郵便事業の創設準備を進める責任者となり、制度設計やインフラ整備、ポストや切手などの各種意匠の制定、従来の「郵便」業者である飛脚たちへの対応などの実務にあたった。 そうした杉浦の総指揮と奮闘により、明治4年(1871)3月1日、我が国の官営郵便事業が東京・大阪間で開始される。定期的かつ一定料金で、その後日本全国をカバーしていく郵便事業の創設は、わが国の通信に革命をもたらし、その後の日本の近代化に大きく貢献していくことになる。杉浦は郵便事業開始の直後に駅逓正に昇進し、明治国家建設のための様々な役職を歴任していくことになる。 甲府市の遊亀公園に建っている「初代駅逓正杉浦譲顕彰碑」 ・エピソード3 【富岡製糸場の開設に尽力】 杉浦は郵便事業の立ち上げに奔走するなかで、官営富岡製糸場(国宝・重要文化財・群馬県富岡市にあり、平成26年世界文化遺産に登録)の設立にも関わっている。 杉浦は、製糸場建設にあたったフランス人技師のブリューナやフランス公使館のデュ・ブスケとの折衝にあたったほか、明治3年(1870)閏(うるう)10月7日には民部省の建設委員に選ばれ(杉浦、渋沢栄一ら5名)、現地を視察して製糸場の動力源となる石炭を産する近隣の炭鉱の状況などの所見を報告している。 富岡製糸場はブリューナの指揮のもと、明治5年(1872)10月に完成し、今後日本が目指すべき模範的な器械製糸場として操業を開始する。ほかに近代的な工場などほぼ皆無だった明治初頭に、西洋の技術による巨大な製糸場が実現できたのは、フランスに2度わたっている杉浦など、西洋の技術や産業を目の当たりにし、近代化を進めていく諸政策にその経験を活かすことが出来る官僚が存在していたことが、その大きな理由として挙げられる。 協力者であり友人でもあった渋沢栄一 個人蔵 上に戻る |