第13回展示紹介人物 |
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・プロフィール 【生没年】 【出身地】 【パネルの言葉を残した背景】 【人物の解説】
・エピソード1 【外務次官埴原正直】 埴原正直は、英語に堪能な外交官として、おもにアメリカ合衆国での駐在を多く経験し、公使館書記官としての駐在中には、日露戦争の講和をめぐる交渉が繰り広げられた、ニューハンプシャー州のポーツマス海軍工廠で行われた日露講和会議にも参加している。その後、サンフランシスコ総領事などを歴任したのち、大正8年(1919)、埴原は外務次官に就任する。 現在でも外務次官は外務官僚の職位の最上位でありつつ、その後駐米大使へ栄転する外務官僚のトップが歩むコースである。そのような超エリートコースに、東京専門学校(現在の早稲田大学だが、大正8年の大学令施行までは、私立大学は学位授与できない呼称のみの大学であった)のような私立学校出身者である埴原が就任するのは極めて異例(明治末期から昭和初期にかけて、埴原の前後に次官に就任した者のほとんど東京帝国大学出身、一部官立の東京高等商業学校、現在の一橋大学の出身者がいる)であった。 埴原が次官に就任した年は第一次世界大戦が終結した翌年にあたり、その欧州を中心とした戦争の後処理をはじめ、さまざまな外交上の課題が山積したころであった。第一次世界大戦後のヨーロッパの秩序を定めたパリ講和会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンらの提唱によって、大正8年(1919)6月に国際連盟(League of Nations)が設立されることとなり、戦勝国でもある日本は常任理事国の地位につく。埴原は外務次官として、外務省におかれた臨時平和条約事務局の事務局長に就任し、国際的地位の向上する日本の外交運営と国際貢献の両面を担っていく。 その他次官在任中には、ロシア革命後のシベリアで発生した、ポーランド人孤児の帰国事業への協力や、ワシントン会議へ全権大使として参加(当初は随員)を果たし、第一次世界大戦後の数々の外交課題にあたっている。ポーランド人孤児の帰国問題とは、帝政ロシアによってシベリアに流刑となっていたポーランド人の子供たちが、第一次世界大戦終結後に勃発したポーランド・ソビエト戦争によって、帰国が出来ない状況になっていたことで、極東在住のポーランド人組織、ポーランド救済委員会は、日本外務省に協力を要請した。埴原次官らの外務省は、この要請に対して速やかに対応し、日本赤十字を通じて数百名の孤児たちの祖国への帰還を実現している。 近代日本の外交は、不平等条約を改正していかに日本の地位を回復するか、という課題からスタートし、日清・日露戦争を経て明治末期に「条約改正」を成し遂げ、その目的を達成した。そして、日本の国際的地位の向上に伴い、日本は自立・自衛のための外交から、国際社会のなかでの役割を果たしていく責任ある外交が求められるようになった。埴原は、こうした日本の外交の転機のなかで、英語で堪能であることや在外駐在歴の長さといった豊かな国際性を武器に、日本外交を支え、リードする存在へとなっていったのである。 外務次官として関わったポーランド人孤児の救済事業(『日本赤十字社五十年小史』より ・エピソード2 【「排日移民法」と闘った「スモール・ハニ」】 埴原正直が日本を代表する外交官として活躍した明治末期から大正時代は、日本人の移民問題を中心に、日米関係が徐々に冷え込んでいく時代でもあった。この問題は両国間の文化や市場、雇用などに関わる対立、有色人種への差別意識なども根深く、日本人の北米移民は徐々に制限が加えられていった。 そうしたなかで、大正11年(1922)、外務次官埴原正直は、アメリカ合衆国駐箚特命全権大使(以後、「駐米大使」)に任命される。最重要の時期に、最重量の課題(駐米大使は外務次官の上位となる外交官最高のポストのひとつ)が埴原に課せられたのは、駐米大使一歩手前の外務次官であったことも去ることながら、埴原の駐米歴の長さや堪能な英語といったキャリアから、その駐米大使就任は次官就任時から既定路線であったと見るべきであろう。 埴原は駐米歴の長さやその人柄から、背が低いことと絡めて「スモール・ハニ」(「リトル・ハニ」ともいわれる)の愛称で呼ばれ、アメリカ国民にも親しまれていた。しかし、駐米大使として太平洋を渡った埴原を待っていたアメリカの世論は、日本に対して厳しいものになっていたのである。 移民をめぐる問題は、明治41年(1908)に日米紳士協定が結ばれ、日本政府の移民数の自主的制限の実施と引き換えに、アメリカ政府も日本人の移民受け入れ禁止をしないことを約束した、政府間の外交上の秘密協定によって現状を維持されていたが、日本人移民の多いカリフォルニア州などで日本人排斥は強まりを見せ、埴原は次官時代からこれを危惧し、日本が求めるのは日本人移民の拡大ではなく、人種で差別されることの問題の是正であることをアメリカに対し、また日本国内において指摘していた。 しかし、1924年のアメリカ連邦議会では、移民・帰化法の改正審議において(移民・帰化法の排日条項を含んだ改正を指して、排日移民法と称されている)、下院で帰化不能外国人(当時日本人に帰化は認められていなかった)の移民を全面的に禁止する条項を盛り込む審議を進める。埴原大使はヒューズ国務長官とともに、アメリカ連邦議会の差別的な排日条項の修正を迫ったが、下院では排日条項を含んだままの改正法案が可決されてしまう。この過程で、埴原大使はヒューズ国務長官と協議し、批判の対象となっていた日米紳士協定の趣旨と運用について明らかにすることが排日条項成立の回避につながると考え、埴原大使はその説明と排日移民法に対する抗議の書簡をヒューズ国務長官へと送る。日米関係の悪化をもたらす排日条項の可決を回避するために、ヒューズ国務長官と協議のうえで進められた埴原大使の書簡とそれに対するヒューズ国務長官の返答は、下院では審議もされずに可決される。 同法の審議は上院に移るが、ここで埴原の提出した書簡が、その論旨とは全く関係ない部分の語句が問題化され、排日移民法は上院でも一気に可決されてしまう。問題化された語句とは、法案成立が両国関係に「重大なる結果(grave consequences)を誘致す」というもので、これを上院の排日移民法推進派が「覆面の脅威」という埴原の脅迫的な恫喝だと歪曲して喧伝したのである。 こうして、排日移民法は上院でも可決され、この年大統領選も控えたクーリッジ大統領は、当初同法案に否定的であったにも関わらず、拒否権を発動することなく署名し、排日移民法は成立する。埴原大使は同法案成立の責を負って休暇を願い出て、同年8月、日本に帰国する。このように排日移民法は極めて政治的な背景のなかで成立を見て、その後の日米関係に暗い影を落とし、両国の友好のために真摯に向かい合った埴原にも悲劇的な結果をもたらす。駐米経験が長く、日本とアメリカ双方の利益を願った埴原の前に、両国の間に横たわった潜在的な対立や、当時のアメリカの根深い人種差別意識は大きく立ちはだかった。不本意な形でアメリカを去ることになった埴原は、その後も日米の友好を願いつつこの世を去ったが、日本とアメリカの対立は埴原の死から7年後、太平洋戦争という結末を迎えてしまうのである。 【埴原が亡くなる4年前に『世界人の横顔』に寄稿した「ヒューズ」伝の末文】 「ワシントン会議の後、大正十三年、私が駐米大使だつたころ、排日移民法案が議会に上程されて、例の「重大なる結果」の問題が起つたが、その際国務卿として私と幾度か折衝したヒユーズ氏は、しみじみと「国務卿として、自由討論を防止するわけにもゆかぬ立場にあるのだから、その点は理解してくれ」とよく語つてゐた。彼は心おきなく話せる人だつた。彼は信頼の出来る友だつた。お世辞かも知れぬが、私がアメリカをたつて日本へ帰る時、彼も私に向つて「当分お別れですね、いろいろ各国の使節にもあつたが、あなたのやうに腹蔵なく話の出来た人はなかつた」と友情の言葉を餞してくれた。 ヒユーズ氏に対する思ひ出の数々は多いが、それにしてもワシントン会議開会の冒頭、予想だにもしなかつた軍縮案の提出をだして、彼の口から世界的の政治旋風を巻起したあの日のヒユーズの偉大さ華々しさを忘れることは出来ない。」 埴原正直が病に倒れる前年に記した評伝「ヒューズ」(『世界人の横顔』より) 南アルプス市立図書館内 ふるさと人物室「外交官 埴原正直×使命「外温にして内剛、誠を以って物に及ぶ」」(平成29年4月から9月まで開催) 開催情報 上に戻る |