功刀 亀内
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
功刀 亀内
くぬぎ きない
Kunugi Kinai
【生没年】
明治22年(1889)生まれ 昭和32年(1957)死去
【出身地】
山梨県中巨摩郡豊村(南アルプス市)〈峡中地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
長年収集してきた「甲州文庫」を県に譲渡する前年、資料を収集するきっかけについて述べた言葉。戦災などで多くの資料を失った山梨県にとって、「甲州文庫」の存在は、現在でも郷土史研究の貴重な財産として重要な位置を占めている。
【人物の解説】
郷土資料「甲州文庫」の収集で知られる郷土史研究者。「甲州文庫」は、甲州の近世から近代にかけての古文書類にとどまらず、歴史・民俗・美術の各分野にわたる資料群で、総数2万点を超える点数を誇っている。戦災によって多くの資料を喪失した山梨の郷土史研究において、「甲州文庫」はふたつとない県民共有の貴重な財産として、県立博物館で保存・活用されている。
・年表
年代 |
出来事 |
明治22年
(1889) |
蚕糸業を営む功刀家の三男として生まれる |
大正4年
(1915) |
若尾謹之助による山梨県志編纂会が発足 |
大正5年
(1916) |
オートバイで山梨・長野を回る |
大正8年
(1919) |
結婚し甲府市穴切町に転居
山梨県志編纂会の土屋夏堂との出会いをきっかけに郷土資料の収集を始める |
大正11年
(1922) |
東京市荏原区上大崎町(東京都品川区)に転居 |
大正12年
(1923) |
東京市品川区大井森下町に転居し蒲団商を営む
関東大震災に被災するも収集資料は事なきを得る |
昭和2年
(1927) |
東京市品川区大井山中町に転居
収集資料を「甲州文庫」と命名 |
昭和5年
(1930) |
中村不折の題字による「甲州文庫」扁額を製作 |
昭和8年
(1933) |
東京市台東区上野桜木町に転居
武田神社と山県神社に「甲州文庫」から関係資料を寄贈 |
この頃 |
渋沢敬三の依頼で資料収集にあたる |
昭和16年
(1941) |
「甲州文庫総目録」を刊行 |
昭和18年
(1943) |
「甲州文庫」を郷里の中巨摩郡豊村(南アルプス市)に疎開 |
昭和20年
(1945) |
甲府空襲で山梨県の郷土資料の多くが失われる
「甲州文庫」を上野桜木町の功刀家に戻す |
昭和24年
(1949) |
甲府市政60周年記念郷土史展に「甲州文庫」を出展
同展をきっかけに「甲州文庫」の県内招致活動がはじまる |
昭和25年
(1950) |
ラジオ番組「甲州文庫を語る」に出演
上野桜木町の功刀家の近所で不審火による全焼火事
県教育長と県立図書館長が「甲州文庫」を調査 |
昭和26年
(1951) |
甲州文庫評価委員会が発足
「甲州文庫」を山梨県に譲渡
県立図書館で甲州文庫特別展示会が開催される |
昭和32年
(1957) |
逝去 |
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・エピソード1
【「甲州文庫」収集のきっかけ】
山梨が全国に誇る郷土資料の集成である「甲州文庫」の収集者・功刀亀内は、もともとは新し物好きな青年だったという。戦後に出演したラジオ番組「甲州文庫を語る」で功刀はこう述べている。
「田舎では仕方がないので、甲府に出て、穴切町に住んでいました。その頃私は新しいものに興味を持ち、自分乍らもハイカラを気取っていました。甲府で最初にオート・バイを買い、繭の買付に県内は勿論、信州あたりまで乗り廻したものでした。」
そのような功刀が「古い物」である郷土資料の収集に目覚めたのは、若尾財閥の三代目・若尾謹之助が着手した山梨県志編纂会による修史事業であった。たまたま飛脚について関心を抱いた功刀は、山梨県志編纂会を訪ね、そこで土屋夏堂に出会い、貴重な郷土資料も収集する者がいなければ、捨てられたり古紙として再利用されてしまうことを教示された。そして屑物屋などをめぐり、資料の収集をはじめたところ多くの資料とめぐりあい、郷土資料収集にのめりこんでいった。そのあたりのことを、功刀は戦後になってから次のように述懐している。
「私は一体に新しいもの好きであった。その私がどうして、あべこべに古いものばかりを漁るようになったかというと、土屋夏五郎(夏堂)さんに案内されて、若尾家の山梨県志編纂所をのぞいたのがそもそもであた。当時の錚々たる史家たちが塵にまみれ、虫にくわれた古文書、古記録と取り組んでいる姿、そこで語られたのは、こうした文けん類が日に日に散逸してしまうということであった。今にして対処よろしきを得なければ、貴重な史料は取返しがつかないことになる―ときいて発奮したのが病つきのはじめである。」
(『月刊山梨』昭和25年2月号)
こうして功刀は家業そっちのけで、商売は夫人に任せる一方で、自らは資料収集に励んでいくことになるのである。
大正初期の遠乗り会の集合シーンで、中央のハンチング帽の青年が功刀亀内 山梨県立博物館蔵
・エピソード2
【「甲州文庫」山梨へ】
功刀は創建間もない武田神社や山県神社に武田信玄や山県大弐の関連資料を寄贈するなど、郷土への還元も果たしていたが、彼の「甲州文庫」がはじめて山梨の地にやってきたのは、太平洋戦争中の昭和18年(1943)のことである。戦災による資料の喪失を恐れた功刀は、郷土への疎開を考えて、出身地である中巨摩郡豊村(南アルプス市)への疎開を実施した。その時の経緯を功刀は当時の新聞にこのように語っている。
「かうして私の文庫も郷里の倉庫の中に保管されることとなりましたが、かうして置けば帝都に万一敵機の空襲を見ても安心です。自分の蒐集を自慢するのは如何と思ひますが、これだけの郷土資料はもう集める方法はありますまい。いづれ適当の機会の到来する迄堅く封をして散逸を防ぐつもりです。」
(山梨日日新聞 昭和18年11月14日号)
功刀の危惧した東京への空襲だけでなく、昭和20年(1945)7月6日に甲府も空襲を受け、多くの資料が失われ、功刀の言葉を借りれば、山梨県は「これだけの郷土資料をもう集める方法はありますまい」という状況になってしまう。甲府だけでなく、戦中戦後の物資不足は、多くの紙資料を失わせた。豊村に疎開した功刀の「甲州文庫」は無事であったが、戦後、功刀は自らの資料について、このように語っている。
「戦禍によって尊い文献資料を失った郷土文化研究家のために私の文庫 何卒御利用下さるやうに」
(山梨日日新聞 昭和20年11月9日号)
戦後の復興が進み、人々がようやく日々の食糧以外のことへと考えを向けられるようになりつつあった昭和24年(1949)、功刀は甲州文庫「再び得がたい貴重品として、私は私の私有物というよりは、郷党各位からお預かりしているような気持である。」という考えから、山梨県へ「甲州文庫」の出展をおこなう。
「甲府市政60周年記念郷土史展」に出展された「甲州文庫」は、多くの山梨県民から大歓迎をもって迎えられ、会場となった甲府の松林軒デパートには9日間の会期に10万人もの来館者が訪れた。こうして多くの山梨県民の耳目にふれた「甲州文庫」は、戦災によって多くの資料も江戸以来の町並みも失った甲府や山梨の人々に、甲府や山梨の歴史文化の豊かさを伝え、復興に取り組む人々に勇気を与えた。
山梨県では「甲州文庫」の山梨への招致運動が起こり、昭和26年(1951)10月、功刀氏の「甲州文庫」は山梨県へ譲渡されることになる。譲渡にあたって功刀は「自分の子供を育てて嫁にやるような気持ちです。」と語っている。山梨にやってきた「甲州文庫」は、その年の11月、「甲州文庫特別展示会」が県立図書館で開催され、代表的な資料を展示に供し、その後資料の分類整理がおこなわれたのち、一般への利用に供されるようになり、現在に至るまで山梨の郷土研究を支える貴重な財産で有り続けている。
甲府市制60周年記念展覧会場か 山梨県立博物館蔵
甲州文庫特別展示会(会場 山梨県立図書館) 山梨県立博物館蔵
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