山中 共古
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
山中 共古
やまなか きょうこ
Yamanaka kyouko
【生没年】
嘉永3年(1850)生まれ 昭和3年(1928)死去
【出身地】
武蔵国(江戸)四谷仲殿町(東京都新宿区)〈その他〉
【パネルの言葉を残した背景】
山中が雑誌『日本及日本人』に寄稿した記事で、他国に比類なき山梨の自慢として挙げた一節。甲府教会の牧師としてやってきた山中は、山梨の民俗を深く見つめていた。
【人物の解説】
江戸の旗本の子として生まれる。宗教家であり民俗学者。幼名は平蔵、本名は保生、のちに笑(えみ、もしくはえむ)と改名しており、共古は筆名。キリスト教メソジスト派に入信し、同派で最初の日本人牧師のひとりとなる。山梨、東京、静岡の教会で牧師を務める。甲府教会在任中に、甲府教会の移転新築を行い、ミッション系スクールの山梨英和女学校が設立されている。甲府教会在任中の体験や見聞をもとに著した『甲斐の落葉』などの一連の著作は、山梨県の民俗学研究の基礎となっている。
・年表
年代 |
出来事 |
嘉永3年
(1850) |
江戸の旗本の山中家に生まれる(幼名は平蔵、のち保生、笑) |
元治元年
(1864) |
江戸城内で和宮様広敷添番として勤務する |
明治元年
(1868) |
静岡に移る
静岡藩英学校教師となる |
明治4年
(1871) |
笑と改名する |
明治7年
(1874) |
宣教師マクドナルドから受洗しキリスト教のメソジスト派に入信 |
明治11年
(1878) |
松浦武四郎の知遇を得る |
明治15年
(1882) |
按手礼を受け牧師となる(年代は他に説あり)
静岡などで伝道活動 |
明治19年
(1886) |
甲府教会に赴任 |
明治22年
(1889) |
『東京人類学雑誌』に「甲州の習俗の諸報告」を発表
山梨英和女学校開校 |
明治24年
(1891) |
甲府桜町1丁目に甲府教会を新築移転 |
明治26年
(1893) |
沼津に転任し、以後下谷、牛込、見付、吉原で勤務 |
明治34年
(1901) |
『甲斐の落葉』の草稿をまとめる |
明治38年
(1905) |
柳田国男の知遇を得る |
大正3年
(1914) |
牧師を辞職する(明治45年とも言われる) |
大正15年
(1926) |
『甲斐の落葉』を刊行 |
昭和3年
(1928) |
『共古随筆』を刊行
逝去 |
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・エピソード1
【メソジスト派最初の日本人牧師となり甲府へ】
江戸の旗本の家に生まれた山中共古は、早くに父が逝去したこともあり、若くして江戸城へ勤めるようになる。やがて幕府は崩壊し、徳川家は江戸から駿河(静岡県)へ移ることになり、山中もそれに従う。
山中は静岡藩英学校(のち学問所)に勤めるようになるが、ここで明治6年(1873)のキリスト教解禁とともに来日し静岡へやってきたメソジスト派の宣教師デビッドソン・マクドナルドと出会う。山中はこのマクドナルドから影響を受け、翌明治7年にマクドナルドから受洗してキリスト教徒となる。そして明治15年(諸説あり)には、平岩恒保・土屋彦六(いずれものちに甲府教会に赴任)とともに按手礼を受けて、メソジスト最初の日本人牧師となるのである。
山中は、東京下谷や静岡での伝道活動ののち、明治19年(1886)、土屋彦六に代わる6代目の牧師として甲府教会に赴任する。山中は沼津へ転任するまでの約7年間山梨に在任していたが、その間に甲府教会の甲府桜町4丁目から1丁目への新築移転を果たし、同じメソジスト派による山梨英和女学校も開校している。
その他、山梨県出身で新撰組隊士でもあり回心してキリスト教信者となっていた結城無二三との交流や、下神内川村(現在の山梨市)の豪農だった中沢徳兵衛に洗礼を施すなど、山梨県におけるキリスト教をめぐるさまざまな出来事に深くかかわっている。
このように山中は牧師としての活躍を示す一方で、その視線は山梨のさまざまな民俗に注がれていたのである。
山中の在任中に新築された甲府教会 山梨県立博物館蔵
・エピソード2
【『甲斐の落葉』―山梨の民俗への視線―】
「コノ書ハ予ガ明治十九年ノ冬、甲府ヘ移リ、住居シタルヨリ、数年間、見聞シタルヲ、手帳ノハシニ、認メ置ケルヲ写シカヘタルマデノモノニテ、順序、部分ノ別モナク、落葉カキ集メタルバカリ也 明治辛丑初秋 山中共古」
山中の『甲斐の落葉』の冒頭に書かれている序文である。『甲斐の落葉』には、山中が約7年間の山梨県での伝道生活のなかで見つめた山梨の民俗が描かれている。
内容は慣習や食べ物、年中行事、祭礼、道祖神、遊び、迷信、方言など200以上の民俗的な事柄の見出しがあり、それぞれに解説文やイラストによる説明がついており、明治中ごろの山梨県の民俗を知るうえで、大変貴重な資料となっている。
山中がこうした民俗学的な視線と整理をするようになったのは、国学者・藤井貞幹と北海道探検とアイヌ民族に関する記録で知られる松浦武四郎との出会いが大きく影響したとされる。
藤井は18世紀の国学者であるが、山中はその著作に強い影響を受けたとされ、山中の筆名である共古は藤井の号である好古からとったものとされている。
松浦とは直接面識を得ており、北海道の探検やアイヌ民族に関する記録を数多く残した松浦の視線や学術的な問題意識が、山中の民俗を見る目に大きく影響しているものと思われる。
また、藤井貞幹を山中に紹介したのも松浦だと言われている。山中がこうした民俗学的な記録を残した当時は、いまだ「民俗学」としての民俗的事柄へのアプローチが定まっておらず、後年「民俗学」の第一人者となった柳田国男は、山中の事績を「民俗学の先駆者」と高く評価している。
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