村岡 花子
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3
・プロフィール
【人物の氏名】
村岡 花子
むらおか はなこ
Muraoka Hanako
【生没年】
明治26年(1893)生まれ 昭和43年(1968)死去
【出身地】
山梨県甲府市
【パネルの言葉を残した背景】
山梨英和女学校の教員として過ごした5年間の日々を回顧した言葉。村岡にとってのこのころは、幼少時に過ごして以来の山梨での生活であり、村岡は自らが育った山梨の風土や人々とふれあいながら、小説家としてのスタートを切ったのである。
【人物の解説】
モンゴメリ作『赤毛のアン』の翻訳で知られる翻訳家・児童文学者。甲府市に生まれ(寿町もしくは和田平町)、幼児期に甲府教会で洗礼を受ける。
東京に転居して東洋英和女学校で学び、山梨英和女学校の教師として、再び山梨の地を踏む。教員時代から創作活動をはじめ、再び上京して翻訳・編集を中心に、文芸活動を本格化させる。
太平洋戦争をはさんで、モンゴメリやマーク・トウェインらの作品を数多く翻訳する。戦前のラジオ放送にレギュラー出演し、「ラジオのおばさん」としても親しまれた。婦人参政権獲得運動にも参加し、来日したヘレン・ケラーの通訳を務めたことでも知られる。
・年表
年代 |
出来事 |
明治26年
(1893) |
甲府市の安中家の長女として生まれる |
この頃 |
甲府教会で幼児洗礼を受ける |
明治31年
(1898) |
東京へ転居 |
明治32年
(1899) |
城南尋常小学校に入学 |
明治36年
(1903) |
東洋英和女学校に編入学 |
明治37年
(1904) |
ブラックモア校長が着任 |
明治41年
(1908) |
柳原白蓮(Y子)が同級に編入学 |
明治42年
(1909) |
佐佐木信綱に師事、片山廣子と出会う |
大正2年
(1913) |
東洋英和女学校高等科を卒業 |
大正3年
(1914) |
合同歌集『さくら貝』に「ひな菊」の名で寄稿 |
|
山梨英和女学校に英語教師として着任 |
大正5年
(1916) |
『少女画報』に童話などを寄稿 |
大正6年
(1917) |
初の作品集『爐邉』を出版 |
大正8年
(1919) |
山梨英和女学校を退職 |
|
東京の基督教興文協会に入り、翻訳・編集にあたる |
|
村岡けい三と結婚(「けい」はにんべんに「敬」) |
大正9年
(1920) |
長男の道雄が生まれる |
大正12年
(1923) |
関東大震災が起こり、夫の経営する出版社が倒産 |
大正15年
(1926) |
夫とともに自宅に青蘭社書房を設立 |
|
長男の道雄が死去 |
昭和2年
(1927) |
片山廣子のすすめで、マーク・トウェイン作『王子と乞食』を翻訳出版 |
昭和5年
(1930) |
婦選獲得同盟による全日本婦選大会に参加 |
昭和7年
(1932) |
日本放送協会(NHK)の嘱託となり、「子供の新聞」を担当する |
昭和14年
(1939) |
カナダ人宣教師ロレッタ・L・ショー女史から、モンゴメリ作『Anne of Green Gables』を贈られる |
昭和16年
(1941) |
ラジオ放送から退く |
昭和20年
(1945) |
終戦後の民主化のなか、婦人問題や教育問題についての公務を歴任する |
昭和21年
(1946) |
文部省嘱託となる |
昭和27年
(1952) |
『Anne of Green Gables』を『赤毛のアン』として翻訳・出版 |
|
自宅に「道雄文庫ライブラリー」を設立 |
昭和29年
(1954) |
ウィーダ作『フランダースの犬』を翻訳・出版 |
昭和30年
(1955) |
日本児童文芸家協会理事に就任 |
|
来日したヘレン・ケラーの通訳を務める |
昭和34年
(1959) |
モンゴメリ作『風の中のエミリー』を翻訳・出版 |
|
マーク・トウェイン『ハックルベリィ・フィンの冒険』を翻訳・出版 |
昭和35年
(1960) |
藍綬褒章を受章 |
昭和38年
(1963) |
夫のけい三が死去 |
昭和41年
(1966) |
ディケンズ作『クリスマス・カロル』を翻訳・出版 |
昭和43年
(1968) |
グリム作・中谷千代子絵『ブレーメンのおんがくたい』を翻訳・出版 |
|
逝去 |
|
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・エピソード1
【文学者への原点―東洋英和と山梨英和での日々―】
甲府で生まれた村岡花子は、幼児のうちに甲府教会で受洗し、幼少期に家族とともに東京に転居し、ミッションスクールである東洋英和女学校に編入学して、予科・本科・高等科と進み、10代のすべての時間をこの学校で過ごしている。
この東洋英和での10年の学びのなかで、村岡は英米文学と出会い、その魅力にとりつかれることになる。カナダ人女性宣教師に指導を受け、ディケンズなどの原書に囲まれて、欧米の文化や文学への素養と英語力を身に着けていった。
この東洋英和在学中に、村岡の「腹心の友」となる柳原Y子(白蓮)が編入学してくる。この柳原の導きによって歌人佐佐木信綱に師事し、一時期短歌創作に励んでいる。その後、短歌の道には進まなかったが、こうした学生時代の創作活動も、村岡の文学者としての素養を磨いていったのであろう。
大正3年(1914)、村岡はふるさとである山梨県甲府市の山梨英和中学校の英語教師として赴任し、幼少時以来の山梨での生活がはじまる。山梨英和女学校は東洋英和と同じメソジスト派のミッションスクールで、明治22年(1889)に開校している。ここで村岡は5年間の月日を、多くの生徒たちに囲まれて過ごした。そして、村岡はこの山梨英和時代に少女向け雑誌に寄稿を始め、小説や翻訳を業とする文学者としての第一歩を記すのである。
《「静かなる青春」(『改訂版 生きるということ』)より》
「そのころからぽつりぽつりと私は童話を書くことを始めていた。小説を書きたくてもどうして書いていいのか、まるで見当がつかない。けれど何か書かずにはいられない衝動が童話を書かせたのであった。そうして、童話ともつかず、少女小説ともつかない物語をよく『少女画報』から頼まれて書くようになった。その時分の『少女画報』は少女雑誌の中では一番売行きのいいものであったろうか、生徒たちは「うちの学校の先生が書いていらっしゃる」というので、争ってその雑誌を読んだ。」
画面左の高木にやや隠れている2階建ての建築が山梨英和女学校(明治45年撮影) 山梨県立博物館蔵(ちなみに画面中央の小さな白い角状のものは、現存しない若尾逸平の銅像)
・エピソード2
【子供たちへの言葉】
村岡花子は、大正8年(1919)に5年間勤務した山梨英和女学校を辞めて上京し、キリスト教系の出版社に勤務して、婦人・子ども向けの本の翻訳・編集にあたるようになる。
その年、同じ業界の出版社社長を務める村岡けい三と結婚(「けい」はにんべんに「敬」)。大正9年(1920)9月には長男道雄が生まれる。
そのような幸せな暮らしもつかの間、続けて悲劇が村岡を襲う。大正12年(1923)9月1日、東京は激しい揺れに見舞われ(関東大震災)、夫の出版社が大打撃を受ける。大正15年(1926)に夫婦で青蘭社を立ち上げ、出版社として再スタートをきった矢先、一人息子の道雄が病死してしまう。
マーク・トウェイン作『王子と乞食』は、深い悲しみと苦しみを乗り越え、村岡にとって初の本格的な翻訳本として道雄の死の翌年、昭和2年(1927)に刊行された。村岡夫妻設立の青蘭社の創立趣意では、その第一に「青蘭社書房の志す所は「婦人と子供のため」の一路であります。」と掲げている。
悲しみの出発点から、村岡は数多くの子ども向けの書物を書き、海外のすぐれた作品を翻訳して紹介し、ラジオ番組で子どもたちに語りかけていく。そこには、女性として、教育者として、そして母として、子どもたちへすぐれた言葉を届けたいという思いを感じることができる。
・エピソード3
【戦争を乗り越えて『赤毛のアン』誕生】
昭和に入り、日本は中国大陸において泥沼の戦争をはじめ、国際的にも孤立しつつあった。一方、ヨーロッパでもナチス・ドイツの台頭によって国際的緊張が高まり、1939年にドイツがポーランドに攻め入ったことによって、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が勃発した。
こうした国際的な対立の深まりや、日本国内の排外主義の高まりのなかで、村岡は帰国することになったカナダ人宣教師ロレッタ・L・ショーから1冊の本を贈られる。『Anne of Green Gables』、のちの『赤毛のアン』である。
村岡は同書の面白さに魅せられたものの、日本は昭和16年(1941)12月にアメリカなどと戦争状態に入り、中国から東南アジア、太平洋と戦争を拡大させ、国内では西洋的なものの排斥が日常化しており、海外の文学作品の翻訳出版など思いもよらない風潮となっていた。また、戦争による物資不足は、出版どころか日用品の紙まで不足させる事態となっていた。
そのようななかでも、村岡は同書の翻訳を続け、戦争がおわったのちの昭和27年(1952)、ついに村岡は『赤毛のアン』を刊行する。『赤毛のアン』は、たちまちベストセラーとなり、シリーズ10作品が刊行され、現在でも多くの人々に愛読され続けている。
その『赤毛のアン』のあとがきには、カナダ人宣教師に囲まれて教育を受け、海外の文学作品の紹介をしてきた村岡の、戦争を乗り越えて『赤毛のアン』を世に出せたことへの感謝の言葉が綴られている。
《『赤毛のアン』あとがきより》
「日本人とカナダの婦人宣教師たちの協力によつて創立された東洋英和女学院七十年の長い歴史の中の一つの時代に、あの学園で生活をした私は、英語をカナダ人の教師から学びました。西洋人との私の接触は学生時代から現在に至るまで主としてカナダ人を中心としてつづいて来ております。カナダ系の作家の作品を紹介したいという私の念願は、今日までに多くのカナダの教師たち友人たちから受けたあたたかい友情への感謝からも出発しております。」
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