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第14回展示紹介人物

望月百合子の顔写真と言葉



望月 百合子


プロフィール 年表 エピソード

・プロフィール
【人物の氏名】

望月 百合子
もちづき ゆりこ
Mochiduki Yuriko

【生没年】
明治33年(1900)生まれ 平成13年(2001)死去

【出身地】
山梨県南巨摩郡五開村(富士川町)〈峡南地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
激動の生涯を送った望月が、幼少期を過ごしたふるさとである鰍沢(富士川町)へ の思いを自らの生涯と重ねて歌ったもの。この歌は大法師公園内の石碑に刻まれ、空の蒼のもと富士川を見下ろしている。

【人物の解説】
戦前は新聞記者、アナーキストとして女性解放運動や翻訳などで活躍する。戦後は著述・翻訳活動の一方で、山梨県の地域文化の発展にもつとめ、山梨県出身の文化人団体である山人会の会長、のち最高顧問も務める。また、山梨県立文学館の建設にも尽力しており、平成7年 (1995)には、鰍沢町(富士川町)の名誉町民に推挙された。

・年表

年代 出来事
明治33年
(1900)
生まれる
明治45年
(1912)
上京して、成女高等女学校に入学
大正8年
(1919)

読売新聞の記者となる
断髪洋装して注目を浴びる

大正10年
(1921)

読売新聞を退社
渡仏しソルボンヌ大学に学ぶ

大正14年
(1925)

帰国、以後アナーキストとして活動
山人会の結成に参加

昭和3年
(1928)

長谷川時雨らの『女人藝術』の創刊に参加

昭和5年
(1930)

『女人芸術』講演部長として台湾へ出張

昭和13年
(1938)
満州に渡り満州新聞記者となる
昭和23年
(1948)
日本へ引き揚げる
昭和39年
(1964)
『幻のくに』を出版
昭和53年
(1978)
山人会会長に就任
昭和55年
(1980)

山人会最高顧問に就任

平成元年
(1989)
発起人として奔走した山梨県立文学館が開館
平成5年
(1993)

『ビクトリア女王の娘』を翻訳・出版

平成7年
(1995)
鰍沢町名誉町民となる
平成11年
(1999)
鰍沢町(富士川町)に望月百合子記念館が開館
平成13年
(2001)
逝去
   


・エピソード
【20世紀をまるまる生きた女性活動家】

望月百合子は、1900年に生まれ2001年に亡くなり、その101年の生涯は、そのまま20世紀という百年紀をまるごと生きたこととなる。戦前は断髪・洋装の新聞記者として活躍、女性解放運動への参加や、『女人藝術』などの著述や翻訳、フランス留学や中国での活動など、国際的で先進的な活躍を続けた。
戦後は著述・翻訳活動に活躍する一方で、中村星湖らとともに山梨県出身の文化人団体である山人会の活動再開に尽力し、山梨県立文学館の設立発起人に名を連ね、その開館に尽力するなど、山梨の地域文化の発展のために尽力した。 20世紀を生き抜いた望月の生涯は、常に自由な社会を求め、女性として、文芸を通して、その実現を願った101年であった。常にモダンだったり、ハイカラな雰囲気を身にまとっていたとされる望月だが、幼少期に過ごした山梨県の鰍沢の風土や光景には強い思い入れがあり、その思いは「先人の言葉」の31文字に歌われ、富士川町(旧鰍沢町)の大法師公園の石碑に刻まれている。


鰍沢町教育文化会館・望月百合子記念館オープン時のあいさつ(富士川町提供)
鰍沢町教育文化会館・望月百合子記念館オープン時のあいさつ(富士川町提供)


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