八田 達也
プロフィール 年表 エピソード
・プロフィール
【人物の氏名】
八田 達也
はった たつや
Hatta Tatsuya
【生没年】
嘉永7年(1854)生まれ 大正5年(1916)死去
【出身地】
甲斐国山梨郡歌田村(山梨市)〈峡東地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
明治19年(1886)に著した「蚕事輯説」の巻頭で述べた言葉。養蚕は山梨県で最重要な生産物で、日本の命運は養蚕業の成長にかかってると言っても過言ではないという意味で、生涯を養蚕業の改良と普及に努めた八田の気概がうかがえる言葉。
【人物の解説】
八田達也は、山梨郡歌田村(現在の山梨市)の志村家に生まれ、八代郡鵜飼村(現在の笛吹市)の八田家の養子となる。生涯を通じて養蚕業改良に尽力し、福島県から温暖育を導入したり、富士風穴を蚕種を保管する冷蔵庫として使用することで、通常の時期以外の養蚕を可能とした。技術改良のほか、養蚕業者の組織化を進め、「蚕事輯説」や「新撰養蚕書」などの技術書を刊行し、豊富なイラストや平易な解説で、養蚕の改良普及にも尽力した。
・年表
年代 |
出来事 |
安政元年
(1854) |
山梨郡歌田村(現在の山梨市)の志村家に生まれる |
|
八代郡鵜飼村(現在の笛吹市)の八田家の養子となる |
明治9年
(1876) |
鵜飼村の戸長に就任 |
明治13年
(1880) |
明治天皇巡幸に際して、山梨県の養蚕業を伏見宮、三条実美太政大臣に説明 |
明治15年
(1882) |
県会議員となる |
明治16年
(1883) |
山梨養蚕協会設立 |
明治17年
(1884) |
福島県の温度育を導入 |
明治19年
(1886) |
「蚕事輯説」を著す |
明治20年
(1887)
|
山梨県蚕糸業取締所頭取に就任 |
明治23年
(1890) |
山梨県蚕糸協会の会頭に就任
第3回内国勧業博覧会審査官となる |
明治25年
(1892) |
八達館が富士風穴を開業 |
明治27年
(1894) |
「新撰養蚕書」を著す
甲府測候所(現在の甲府地方気象台)の所長に就任 |
明治29年
(1896) |
技師として山梨県庁に入る |
明治30年
(1897) |
大日本蚕糸会および大日本農会の山梨支会長に就任 |
明治32年
(1899) |
東八代郡の郡長に就任 |
明治33年
(1900)
|
北都留郡長に転任したが辞職 |
明治41年
(1908) |
山梨県農会の会長に就任 |
大正3年
(1914) |
朝鮮の養蚕業調査を実施
石和町長に就任 |
大正5年
(1916) |
逝去 |
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・エピソード
【山梨の養蚕改良に尽力】
近代日本の輸出産業の出発は生糸と茶をメインとしており、明治時代の山梨県において、生糸は最重要の産業製品であった。しかし、生糸は国内でも地域間の、そして輸出製品としても海外の市場での競争にさらされており、その品質や製法の改良は重要な命題であった。八田達也は、そうした生糸の改良に生涯をかけて取り組み、とりわけ山梨県の養蚕製糸界に影響を与えたのは、風穴を利用した蚕種の貯蔵と、福島県からの温度育導入である。
従来、養蚕は「当たり外れが大きい」ものとされ、天候など環境的な要素で大きく左右されてしまうものであった。「清涼育」と言われた従来の天候のままに任せる方法に比べ、火力で温度を管理する「温度育」は養蚕を安定的に進めることができたが、山梨県の養蚕業は「温度育」の導入が大変に立ち遅れていた。八田は温度育の有利さを見抜き、藤村紫朗県令が福島県に派遣した温度育実習生を招いて研究を進め、その成果を「養蚕日誌」として公開して、山梨県における温度育の普及に尽力した。
この温度育と、彼が開いた八達館が運営した富士風穴を天然の冷蔵庫とした蚕種保存業とによって、山梨県では多くの地域で年に数度の養蚕が可能となり、多くの人々が八田のもとを訪れた。八田は、山梨県と日本の第一の産業である養蚕製糸業の改良普及を生涯の使命とし、その発展に大きく寄与したのである。
風穴の断面図を掲載した「富士風穴略説」
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