雨宮 敬次郎
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3
・プロフィール
【人物の氏名】
雨宮 敬次郎
あめみや けいじろう
Amemiya Keijiro
【生没年】
弘化3年(1846)生まれ 明治44年(1911)死去
【出身地】
甲斐国山梨郡牛奥村(甲州市)〈峡東地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
雨宮が根津嘉一郎らに語った言葉。続けて「岩倉(具視)公の如き大政治家も、政治に於ける功績は時と共に消滅するが、その興した日本鉄道(JR東北・高崎線)は、日本鉄道の在る限り人の視聴から湮滅することはない。」と述べている。
【人物の解説】
「甲州財閥」と呼ばれる山梨出身の投資家・実業家のひとり。「天下の雨敬」や「投機界の魔王」などの異名をとる。長百姓の次男として生まれ、行商生活から財を成す基礎を作る。生糸や蚕卵紙などへの投資から浮沈を繰り返すが、その失敗や洋行経験から、鉄道など近代国家や社会の基盤となる事業へ投資・起業を行う実業家へと成長する。日本最初期の製粉・製鉄業、軽井沢への植林事業のほか、甲武鉄道や江ノ島電鉄といった多くの鉄道の経営に関与した。
・年表
年代 |
出来事 |
弘化3年
(1846) |
甲斐国山梨郡牛奥村(現在の甲州市)に生まれる
幼名今朝蔵 |
安政5年
(1858) |
行商をはじめ、甲州から江戸・横浜・信州などを回る |
明治5年
(1872) |
横浜に転居して、両替・洋銀相場に従事 |
明治6年
(1873) |
生糸などの売り込み業を営む
信子と結婚 |
明治9年
(1876) |
蚕種(カイコの卵)の商売のため、アメリカ・イタリアに渡る |
明治10年
(1877) |
蚕種の売買に失敗し、無一文で帰国する |
明治12年
(1879) |
日本最初の機械製粉会社である泰靖社(現在の日本製粉)を創立 |
明治14年
(1881) |
結核にかかり、熱海などで療養する |
明治16年
(1883) |
長野県北佐久郡東長倉村(現在の軽井沢町)で植林・開墾事業を行う |
明治21年
(1888) |
甲武鉄道(現在のJR中央線)の準備に参加する |
明治22年
(1889) |
東京と山梨県をつなぐ山梨鉄道案を構想する |
明治24年
(1891) |
藍綬褒章を受章する |
明治26年
(1893) |
北海道炭礦)鉄道の経営に参加
大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の設立に参加 |
明治27年
(1894) |
岩手県の仙人鉄山を購入し製鉄業へ進出する |
明治28年
(1895) |
雨宮が経営する豆相人車鉄道が開通する
東京市淀橋浄水場への鉄管納入に関する疑獄により収監される |
明治36年
(1903) |
東京市街鉄道(現在の東京都交通局)の会長に就任する |
明治39年
(1906) |
江ノ島電気鉄道の社長に就任
自らの還暦に際して、政財界の要人を招いた大宴会を開催 |
明治40年
(1907) |
車両メーカー雨宮鉄工所(雨宮製作所)を設立 |
明治41年
(1908) |
軽便鉄道全国チェーンである大日本軌道を設立 |
明治44年
(1911) |
逝去 |
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・エピソード1
【全国各地の鉄道経営に関与】
雨宮は、生涯に多くの鉄道事業の創立や経営に関与した。熱海と小田原の間に人力車両を走らせた豆相人車鉄道といった変わり種をはじめ、各地の軽便鉄道を数多く手掛け、大日本軌道という軽便鉄道チェーンも展開した。また、現在でも多くの人々が利用している京浜急行電鉄や江ノ島電鉄の社長も務めていたほか、自身が経営する鉄道で使用する車両を供給する雨宮鉄工所という企業も立ち上げ、明治時代における地方への鉄道普及に尽力している。
・エピソード2
【中央線の夢 ―山梨へ鉄道を―】
こうした雨宮の一連の鉄道事業のうち、最も山梨県と関わり深いのは、甲武鉄道の経営と山梨鉄道案の構想である。甲武鉄道は東京の新宿や飯田町(現在の飯田橋駅附近にあったかつての始発駅)から八王子をつなぐ私鉄で、雨宮は創立に関わるなかで同社株を大量に取得し、その会社経営の中核ともなっていく。
甲武鉄道は明治22年(1889)に新宿・八王子間を開通させたが、名前の「甲」の部分にあたる甲州、山梨県へ路線を延ばす予定はまだ無かった。そこで雨宮は、甲武鉄道の終点である八王子から路線を延ばし、小仏峠を南に迂回する以外は今日の中央線と同じようなルートを通過する山梨鉄道案を構想し、甲武鉄道の開業直前の明治22年2月に国に敷設許可を申請した。雨宮の山梨鉄道は、同じ山梨県出身の若尾逸平らが計画した、静岡県の御殿場から甲府を目指して北上するルートの甲信鉄道案と競合したが、結局どちらにも国からの許可は与えられず、中央線は国が公債(借金)で建設することになり、明治36年(1903)6月11日に八王子・甲府間が開通する。
結局、直接山梨へつながる鉄道の実現は雨宮の手によらなかったが、雨宮の鉄道敷設への熱意や、山梨鉄道計画において東京へと最短距離でつながるルートが山梨県にとって最高の利益があることを、国の建設のはるか前から指摘していることなど、中央線の実現において雨宮が果たした役割は決して小さくない。
甲武鉄道社章
「山梨鉄道起業意見書」収録の山梨鉄道と甲信鉄道の路線比較図
・エピソード3
【ビッグなスケールだった還暦パーティ】
雨宮には社会に必要とされる(=投資すると儲かる)事業を見抜く先見の明があったが、自らに投資する原資がなくとも、事業の得失を説いて政財界の大物を動かすことで資金を調達したり事業を実現させる才覚もあった。
そのように実業界に身を置き、還暦を迎える頃には雨宮敬次郎の名は政財界に大いに鳴り響いたものとなっていた。明治39年(1906)10月、雨宮は還暦を迎えるにあたって、政財界の大物を招いた園遊会を東京の自邸で開催することとしたが、そのスケールは度胆を抜くものだった。
招待客は2千人、大勢の客を迎える屋敷の庭には高さ75尺(約22メートル)の富士山がそびえ、その富士山の内部にパーティ会場は用意された。富士山内部にしつらえられた約400坪もの会場は紅葉に彩られ、天井には2間あまり(約3.6メートル)もの大きな瓢箪がぶら下げられるなどの奇観を形成しつつ、賓客には豪華な食事や酒がふるまわれ、奇抜かつ大規模な祝宴として当時の話題となった。
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