堀内 良平
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3
・プロフィール
【人物の氏名】
堀内 良平
ほりうち りょうへい
Horiuchi Ryohei
【生没年】
明治3年(1870)生まれ 昭和19年(1944)死去
【出身地】
甲府県八代郡黒駒村(笛吹市)〈峡東地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
堀内が創立した富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)の株式募集に掲載された、堀内本人起草による富士山の魅力についての広告文。堀内の富士山を世界に拓こうとする思いは、多くの人々が富士山の価値を享受するきっかけとなった。
【人物の解説】
新聞記者や山梨県会議員を経て、小野金六を動かして富士身延鉄道(現在のJR身延線)を立ち上げ、実業界に足を踏み入れる。早くから富士山麓の観光開発を構想し、山脇春樹知事や小野金六、根津嘉一郎らを動かし、岳麓開発や富士山麓電鉄(現在の富士急行)の敷設を実現する。「富士五湖」の呼称を始めたのも堀内と言われる。この他、大正7年(1918)に東京市内で初めての乗合バス事業者である、東京乗合自動車(青バス)を設立したことや、『黒駒の勝蔵』などの著書があることでも知られる。
・年表
年代 |
出来事 |
明治3年
(1870) |
八代郡黒駒村(現在の笛吹市御坂町)に生まれる |
明治10年代 |
加賀美嘉兵衛の成器舎(笛吹市八代町)で学ぶ |
明治27年
(1894) |
東京法学院(現在の中央大学)で学ぶ |
明治32年
(1899) |
東八代郡会議員となる |
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根津嘉一郎の知遇を得る |
明治35年
(1902) |
甲州葡萄酒株式会社を設立 |
明治38年
(1905) |
八田達也とともに八達館を設立 |
明治40年
(1907) |
山梨県会議員となる
明治40年の大水害の被災地を広報するため、在京新聞社記者を招待
報知新聞に入社 |
この頃 |
小野金六、日蓮宗の小泉日慈(のち身延山第79代法主)に身延線の建設への協力を説く |
明治43年
(1910) |
富士身延鉄道(現在の身延線)創立委員会を結成し、実行委員となる |
明治45年
(1912) |
富士身延鉄道株式会社を設立し、常務に就任 |
大正7年
(1918) |
東京市街自動車(青バス)を設立し、専務に就任 |
大正8年
(1919) |
東京市街自動車が営業を開始 |
大正9年
(1920) |
富士身延鉄道富士・身延間開通 |
大正11年
(1922) |
東京市街自動車を東京乗合自動車に社名変更 |
大正12年
(1923) |
小野金六の死去に伴い富士身延鉄道社長(第2代)に就任 |
大正15年
(1926) |
冨士山麓電気鉄道株式会社・富士山麓土地株式会社を設立 |
昭和3年
(1928) |
富士身延鉄道全線開通 |
昭和4年
(1929) |
富士山麓電気鉄道の大月・富士吉田(現在の富士山駅)間開通
日本初のミネラルウォーター「日本ヱビアン(現在の富士ミネラルウォーター)」発売開始 |
昭和5年
(1930) |
第17回衆議院議員総選挙に民政党から出馬し当選(通算3回当選 |
昭和18年
(1943) |
自著『勤王侠客黒駒勝蔵』を出版 |
昭和19年
(1944) |
逝去 |
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・エピソード1
【富士身延鉄道(身延線)の実現に向けて】
現在の身延線が結ぶ甲府盆地と静岡県の間は、江戸時代以来、富士川舟運によって結ばれ、明治36年(1903)に中央線が甲府に到達するまで、山梨県の物流の中心であった。
明治25年(1892)の鉄道敷設法において、中央線は国によって優先的に建設されることになるが、一方「山梨県下甲府ヨリ静岡県下岩淵ニ至ル鉄道」とされた身延線は予定路線にとどまった。
中央線が完成し、人や物の流れの中心が移ったとはいえ、富士川ルートが持つ静岡との連絡需要や、沿線に日蓮宗総本山の身延山久遠寺を抱えており、身延線には一定の必要性が存在していたのである。
しかし、身延線の民間による建設計画は立ち上がるものの、資金難や不況などからその実現を見るには至っていなかった。敬虔な日蓮宗の信者であった堀内良平は、身延線実現のために立ち上がるが、自らは新聞記者や県会議員を務めていたものの、実業家としての経験はなかったので、事業の中心となる実業家として小野金六に目をつけた。
小野は堀内と同じく日蓮宗の信者でもある実業家であったが、工事や資金調達に困難が予想される身延線建設については、首を縦に振ることはなかった。そこで、堀内は日蓮宗の総本山である身延山の次期法主とも言われていた、静岡県の蓮永寺小泉日慈住職から小野を口説いてもらうことを考えた。
小泉日慈住職は堀内の熱心さにうたれてこれを承諾し、ほどなく明治42年(1909)に小泉住職は身延山法主に就任し、小野に身延線の建設を要請する。小野はこれを承諾し、堀内とともに富士身延鉄道株式会社の準備を進めていき、明治45年(1912)4月に同社を発足させ、小野を社長とし堀内は専務取締役に就任する。
富士身延鉄道は静岡県の富士駅から北に向かって線路を伸ばし、大正9年(1920)5月にようやく身延まで開通させるが、難工事や第一次世界大戦の勃発による資材の高騰から資金不足に陥り、甲府までの全通の見通しは立たなかった。そうしたなか、大正12年(1923)に小野が没してしまう。堀内は第2代社長に就任して、苦心の結果、14年になんとか建設工事を再開させる。
そして、昭和3年(1928)3月30日、会社創立から約16年の時を経て、富士身延鉄道(身延線)が甲府までたどりつき、全線開業の日を迎える。富士身延鉄道はその後、国への買収を経て国鉄身延線となり、現在はJR東海の路線となっているが、この山梨県民にとって重要な足となっている身延線の建設は、堀内の情熱によって実現したものであり、また堀内自身、身延線に関わるところから、実業家としての歩みをスタートさせたのである。
鉄道連隊による富士身延鉄道の線路敷設作業(その1) 個人蔵
鉄道連隊による富士身延鉄道の線路敷設作業(その2) 個人蔵
・エピソード2
【「青バス」出発進行―東京の乗合バスの創始者―】
堀内良平の東京での業績として知られるのが、「青バス」と呼ばれたバス会社の東京市街自動車株式会社(のちの東京乗合自動車)の創立である。
東京市街自動車は、大正7年(1918)に堀内、根津嘉一郎らによって創立され(堀内は専務取締役に就任)、翌年から営業を開始した。乗合バスの営業第1号は諸説あるが、堀内の東京市街自動車は正式なバス事業経営の認可を警視庁から得た第1号だとされており、バスの車体が深い緑色だったことから「青バス」といって親しまれ、東京市民の足として活躍の場を広げ始めた。
そこへ訪れたのが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で、この地震によって、当時の東京市民の主要な交通機関であった東京市電は完全にマヒ状態になってしまった。しかし、軌道や架線に被害があれば運行できない市電とは違って、堀内の「青バス」は道路さえ復旧すれば運行できることから、災害後の東京市民の貴重な足となったのである。
堀内は東京市民の主要な足となった「青バス」に女性車掌を乗車させるアイディアを着想し、バスガールを25名募集したところ、200人以上もの応募が殺到した。このバスガールが乗車する「青バス」も好評を博し、「青バス」はますます発展していった。
その後、「青バス」は早川徳次の東京地下鉄道を経て、交通網の戦時統合によって、東京市の事業となり、現在の東京都交通局のバス事業へとつながっている。
・エピソード3
【富士山麓開発の夢―富士を世界に拓く―】
現在でこそ、観光地としての盤石の地位を築いている富士山とその北麓地域だが、こんにちの盛況に導くきっかけを作ったのは堀内良平に他ならない。
鉄道計画路線の沿線調査などによって、早くから富士五湖の観光的価値を見抜いていた堀内は、富士身延鉄道の建設で苦楽を共にしていた小野金六と当時の山梨県知事であった山脇春樹(第21代)を動かし、大正6年(1917)9月、岳麓開発事業創立準備委員会を発足させた。委員会のメンバーには、根津嘉一郎、若尾謹之助、若尾璋八など、在京の甲州財閥の歴々が名を連ねていた。
翌大正7年(1918)7月、甲府の望仙閣において、県会議員や甲府市会議員への説明会を開催する。その時堀内の説明のなかで発せられたのが、「先人の言葉」である。山梨県民にとって、いわば「当たり前」にそこにある富士山とその周囲の景観と環境が、いかに観光的に高いポテンシャルを持っているかを堀内は説き、その開発のための鉄道建設と、恩賜県有財産(恩賜林)の長期借用による別荘地開発を提唱したのである。
こうして堀内によって立ち上げられた富士山麓開発構想だが、山脇知事の転任や小野の死によって停滞を余儀なくされたが、富士山麓開発に前向きな本間利雄知事(第25代)の着任によって、いよいよ具体的に動き出していく。本間知事の後押しもあって、大正14年(1925)に富士山麓電気鉄道創立準備委員会が発足し、翌大正15年に鉄道建設を行う富士山麓電気鉄道株式会社と別荘地開発を行う富士山麓土地株式会社が創立する。両社とも現在の富士急行株式会社の前身である。
こうした富士山麓開発のインフラ面での事業を推進しつつ、堀内は昭和2年(1927)に新聞社が主催した「日本新八景」投票の湖沼の部に、富士山麓の5つの湖を「富士五湖」として登録し、湖沼の部第1位の獲得に結び付け、「富士五湖」の呼称を一般的にするのに貢献するなど、富士山麓開発のソフト面においても大きな功績を残している。
そして昭和4年(1929)6月、富士山麓電気鉄道が大月から富士吉田(現在の富士山駅)まで開通し、富士山麓へ電車を走らせるという堀内の夢が実現する。堀内がその価値を紹介することに心血を注いだ富士山は、平成25年(2013)に世界文化遺産に登録されたが、「富士を世界に拓く」という堀内の夢の続きは、現在の私たちに託されているのかも知れない。
富士山麓電気鉄道・富士山麓土地株式会社株式募集広告 個人蔵
富士山麓電気鉄道開通記念絵はがきの封筒に掲載された富士山を取り巻く鉄道路線図 山梨県立博物館蔵
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