浅川 巧
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
浅川 巧
あさかわ たくみ
Asakawa Takumi
【生没年】
明治24年(1891)生まれ 昭和6年(1931)死去
【出身地】
山梨県北巨摩郡甲村(北杜市)〈峡北地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
浅川の義弟浅川政歳が回想した浅川の言葉。林業技師としての巧の思考が端的に表れている。浅川の生涯は朝鮮民芸の美を紹介するとともに、朝鮮半島の緑化に尽くしたものだった。
【人物の解説】
林業技師であり、朝鮮民芸と陶芸の研究家。県立農林学校(現在の県立農林高校)を卒業後、秋田県で林業技師として働いたのちに、実兄の浅川伯教がいる朝鮮半島に渡り、朝鮮総督府の林業技師となる。朝鮮半島の植林にあたる一方で、朝鮮の民芸や陶芸に着目し、その魅力を紹介することに努めた。兄伯教と民芸運動の推進者である柳宗悦とともに、朝鮮民族美術館の設立に尽力している。昭和6年(1931)に肺炎で急逝するが、「韓国の山と民芸を愛した日本人」として現地の人々に愛され、葬儀の際には浅川の棺を担ぐ希望者であふれたとされる。
・年表
年代 |
出来事 |
明治24年
(1891) |
山梨県北巨摩郡甲村(現在の北杜市高根町)に生まれる |
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父は巧の誕生前に逝去 |
明治30年
(1897) |
村山西尋常小学校入学 |
明治34年
(1901) |
秋田高等尋常小学校に入学 |
明治40年
(1907) |
山梨県立農林学校入学(39年の記述もあり) |
明治35年
(1902) |
山梨県師範学校に入学 |
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甲府教会で受洗 |
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小宮山清三の知遇を得る |
明治43年
(1910) |
秋田県大館営林署に就職(42年の記述もあり) |
大正3年
(1914) |
大館営林署退職 |
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朝鮮に渡り、朝鮮総督府農商工部殖産局山林課に就職 |
大正4年
(1915) |
兄の浅川伯教と千葉県我孫子の柳宗悦宅を訪問 |
大正5年
(1916) |
浅川みつゑと結婚 |
大正6年
(1917) |
『大日本山林会報』に「テウセンカラマツの養苗成功を報ず」を掲載(石戸谷勉と共著) |
大正8年
(1919) |
執筆した朝鮮総督府『朝鮮巨樹老樹名木誌』が刊行される(石戸谷勉と共著) |
大正9年
(1920) |
インド人シングが朝鮮を訪問し「青花辰砂蓮花文壺」(伯教所蔵)を鑑賞 |
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柳宗悦と朝鮮民族美術館設立の計画を立て、趣意文を起草 |
大正10年
(1921) |
妻のみつゑ死去 |
大正13年
(1924) |
柳宗悦とともに甲府の小宮山清三を訪ね、木喰仏と出会う |
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朝鮮民族美術館が開館 |
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「木喰五行上人研究会」の発足に参加 |
大正14年
(1925) |
柳宗悦と丹波(京都府)の木喰仏調査を行う |
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大北咲と再婚 |
大正15年
(1926) |
林業関係の調査報告を続々と発表 |
昭和2年
(1927) |
兄の浅川伯教と窯跡調査 |
昭和3年
(1928) |
財団法人啓明会から浅川兄弟や柳らの共同研究「朝鮮に於ける高麗末期より李朝初期の陶磁器の根本的調査研究」への補助を得る |
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朝鮮民族美術館で「李朝陶磁器展覧会」開催 |
昭和4年
(1929) |
自著『朝鮮の膳』(工政会出版部刊)を刊行 |
昭和5年
(1930) |
『帝国工芸』に「朝鮮の膳と箪笥類に就いて」を掲載 |
昭和6年
(1931) |
急性肺炎により逝去 |
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遺稿「朝鮮茶碗」が『工藝』に掲載される |
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遺著『朝鮮陶磁名考』が朝鮮工藝刊行会から刊行される |
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・エピソード1
【林業技師として】
浅川巧は、山梨県立農林学校(現在の県立農林高校)を出た林業技師で、秋田県の大館の営林署で働き始める。その後、兄の伯教が朝鮮に渡り、浅川もその翌年に朝鮮に渡って、朝鮮総督府の山林課に職を得る。そして、林業試験場で朝鮮在来の樹木や移入樹木の試験・調査をはじめる。当時の朝鮮半島の山林は荒廃が進んでおり、禿山の緑化推進は重要な課題であった。
浅川は、チョウセンカラマツの養苗に成功したのをはじめ、『朝鮮巨樹老樹名木誌』など数々の調査成果を挙げていくが、日本の技術を移植するのではなく、朝鮮にもともとある在来の品種や方法を考究していく。その朝鮮本来のものを大切にしようとする姿勢は、彼の民芸への愛情と通底するものであった。
昭和6年(1931)、浅川は肺炎で朝鮮の地で急逝するが、渡航以来一貫して林業技師として朝鮮の山林緑化に尽力し、ソウル市忘憂里にあるその墓には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。
北杜市高根町の浅川伯教・巧兄弟生誕の地碑(平成27年撮影)
大韓民国ソウルの浅川巧墓地(平成28年撮影)
・エピソード2
【朝鮮の民芸の美に魅せられて】
浅川巧は、兄の伯教と民芸運動の推進者である柳宗悦とともに、大正13年(1924)に京城の景福宮内に朝鮮民族美術館を設立する。この動きの中心となった柳と浅川とは密接な関係を持っており、柳の朝鮮美術や民芸品への傾倒、そしてこの美術館の設立には、浅川の存在や京城の浅川の家で見た朝鮮の工芸品や陶磁器との出会いが、大きな動機付けとなっている。
柳と浅川は、大正13年1月に甲府の小宮山清三宅で木喰仏と出会った際にも同行しており、浅川は柳を中心とした木喰仏の再評価に深くかかわっている。柳は浅川について、「朝鮮民族美術館の彼の努力に負ふ所が甚大である」としており、浅川がこの美術館設立のなかで、最も重要な存在だったことを示している。柳の朝鮮美術の紹介や民芸運動に大きな影響を与えた浅川は、生涯に『朝鮮の膳』(昭和4年)と『朝鮮陶磁名考』(昭和6年、没後の刊行)が単行本として刊行されており、『朝鮮の膳』には浅川の民芸(工芸)に対する考え方が以下のように述べられている。
「正しき工藝品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は或意味での仕上工とも言ひ得る。器物から言ふと自身働くことによって次第にその品格を増すことになる。(中略)工藝品真偽の鑑別は、使はれてよくなるか悪くなるかの点で判然すると思ふ。(中略)然るに朝鮮の膳は淳美端正の姿を有(たも)ちながらよく吾人の日常生活に親しく仕へ、年と共に雅味を増すのだから正しき工藝の代表とも称すべきものである。」
一方、『朝鮮陶磁名考』は、浅川の朝鮮の陶磁器について、その名称や用途、窯道具についての調査で得た知見を集成したものである。同書では、他者の真似や模倣をするのではなく、朝鮮が長い時間をかけて培ってきた陶磁器の技術や美しさを失わず、これを育てて継承していくことの重要さを語っている。
その緒言では、「(陶磁器を)生まれながらの名前で呼び掛けるならば、喜んで在りし日の昔を語り、一層親しみを感じ得ると思ふ。又延いてはその主人であった朝鮮民族の生活や気分にも自ら親しみある理解を持てることは必然である。」と述べており、兄の伯教が彫刻「木履の人」で帝展入選を果たした際に、「朝鮮人と内地人との親善は政治や政略では駄目だ 矢張り彼の芸術我の芸術で有無相通ずるのでなくては駄目だと思ひました」と、相互の芸術理解の重要さを述べていたのと同様に、浅川もまた、朝鮮の陶磁や民芸、自然や人々のなかに美を見いだし、その理解を深めようとしていたのである。
浅川と柳宗悦が小宮山清三邸で出会った木喰五行作の弘法大師像 山梨県立博物館蔵
北杜市浅川伯教・巧兄弟資料館ホームページ
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