浅川 伯教
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
浅川 伯教
あさかわ のりたか
Asakawa Noritaka
【生没年】
明治17年(1884)生まれ 昭和39年(1964)死去
【出身地】
山梨県北巨摩郡甲村(北杜市)〈峡北地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
第2回帝国美術院展覧会で「木履の人」が入選した際の浅川伯教のコメント。受賞は朝鮮半島で三・一独立運動が起きた翌年であり、浅川が芸術を通した日韓の相互理解を志していたことがわかる。
【人物の解説】
彫刻家で朝鮮半島の陶磁器の研究家であり教育者。小学校教員として朝鮮半島に渡り、いったん帰国し、彫刻に専念する。大正9年(1920)、第2回帝国美術院展覧会で彫刻「木履の人」が入選する。その後、ふたたび朝鮮半島に移住し、窯跡の調査など、朝鮮陶磁器の研究者として数々の成果をあげ、「朝鮮古陶磁の神様」と称される。朝鮮陶磁の世界を日本に紹介したほか、自らも作陶し数々の作品を残している。大正9年(1920)に実弟の浅川巧、柳宗悦とともに朝鮮民族美術館を京城(現在のソウル)に設立している。
・年表
年代 |
出来事 |
明治17年
(1884) |
北巨摩郡甲村五町田(現在の北杜市高根町)に生まれる |
明治23年
(1890) |
村山西尋常小学校に入学、父が死去 |
明治24年
(1891) |
弟の巧が生まれる、浅川家を相続する |
明治27年
(1894) |
秋田高等尋常小学校に入学 |
明治33年
(1900) |
小学校の臨時教員・訓導となる |
明治35年
(1902) |
山梨県師範学校に入学 |
明治37年
(1904) |
甲府で受洗 |
明治39年
(1906) |
山梨県師範学校を卒業し、富里、塩崎などの小学校に勤務 |
この頃 |
小宮山清三の知遇を得る |
明治45年
(1912) |
新海竹太郎に師事する |
大正2年
(1913) |
朝鮮半島に移住し京城の小学校に勤務 |
大正3年
(1914) |
弟の浅川巧が京城に移住してくる |
|
三枝たか代と結婚 |
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ロダン作の彫刻を見るため、李朝の白磁を手土産に千葉県我孫子の柳宗悦を訪れる |
大正4年
(1915) |
弟の巧とともに、柳宗悦を訪れる |
大正8年
(1919) |
朝鮮半島で三・一独立運動起こる |
|
東京に移り、新海竹太郎のもとで彫刻制作に励む |
大正9年
(1920) |
彫刻「木履の人」が第2回帝国美術院展覧会で入選 |
|
弟の巧と柳宗悦と朝鮮民族美術館の設立を構想 |
大正11年
(1922) |
平和博覧会記念美術展で彫刻「平和の人」入選 |
|
朝鮮半島に移住 |
|
『白樺』に「李朝陶器の価値及び変遷に就て」を掲載 |
大正12年
(1923) |
朝鮮の窯業調査を本格的に取り組む |
大正13年
(1924) |
朝鮮民族美術館を設立 |
大正15年
(1926) |
『木喰上人之研究』第3号に「木喰さんについて二三」を掲載 |
昭和3年
(1928) |
財団法人啓明会から浅川兄弟や柳らの共同研究「朝鮮に於ける高麗末期より李朝初期の陶磁器の根本的調査研究」への補助を得る |
昭和4年
(1929) |
浅川を支援する財界・知識人からなる朝鮮陶器研究会が結成される |
昭和5年
(1930) |
『釜山窯と対州窯』を刊行 |
昭和6年
(1931) |
弟の巧死去 |
昭和9年
(1934) |
東京の白木屋デパートで「朝鮮古陶史料展」を開催 |
昭和21年
(1946) |
帰国し神奈川県に住む |
昭和24年
(1949) |
千葉県に転居 |
昭和29年
(1954) |
第7回山梨県芸術祭工芸部門の審査員となる |
昭和31年
(1956) |
『李朝の陶磁』を刊行 |
昭和35年
(1960) |
陶器全集『李朝』を刊行 |
昭和39年
(1964) |
逝去 |
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・エピソード1
【白磁との出会い】
浅川伯教は「朝鮮古陶磁の神様」とまで称された、朝鮮の古陶磁研究の第一人者だが、浅川が古陶磁などの朝鮮美術に関心を持つようになったのは、甲府教会で知り合った小宮山清三の影響であるとされている。朝鮮美術、ことに高麗時代の青磁に魅かれていた浅川は、大正2年(1913)、日本に併合されて間もない朝鮮半島の小学校教員として京城(現在のソウル)に赴任する。そして、浅川は京城で偶然、(李氏)朝鮮時代の白磁と出会い、心を奪われる。浅川は、のちに李朝の白磁の壺を柳宗悦に紹介し、柳によって白磁の再評価がされるきっかけをつくるが、この白磁を「李朝の白磁は大理石の様に透明な影を持つ」と表現した浅川自身にも、彫刻家としてのインスピレーションを与えることになる。
浅川はその後、大正8年(1919)にいったん東京に戻って新海竹太郎に師事して彫刻に専念し、その翌年に、第2回帝国美術院展覧会に出品した浅川の「木履の人」が入選を果たす。「木履の人」は、朝鮮の民芸の美を見抜き、朝鮮の人々と触れあい生活した浅川ならではの作品であり、「先人の言葉」に掲げた「朝鮮人と内地人との親善は政治や政略では駄目だ 矢張り彼の芸術我の芸術で有無相通ずるのでなくては駄目だと思ひました」という浅川の言葉は、この帝展入選の際に述べたものである。時は、朝鮮半島で三・一独立運動が起こった翌年のことであり、お互いの芸術を理解しあうことによって、親善的な関係を深めることができる、という趣旨の浅川の言葉は、現在にも通じる、非常に重要な示唆が含まれていたと言えよう。
北杜市高根町の浅川伯教・巧兄弟生誕の地碑(平成27年撮影)
・エピソード2
【「陶片を読む」―朝鮮陶磁器の調査・研究と朝鮮民族美術館の設立―】
浅川伯教は、大正11年(1922)に再び朝鮮半島に渡る。彫刻家としての制作活動とは別に取り組みはじめたのが、朝鮮古陶磁の調査と研究である。当時、日本の併合下の朝鮮半島では、京城に総督府が置かれ、これに伴ってさまざまな土木工事が行われ、数々の陶片が出土していた。これに目をつけた浅川は、古陶磁のかけらを収集しはじめる。そして、朝鮮半島各地の窯跡の調査に乗り出し、朝鮮半島中の約700ヶ所もの窯跡を、歩いて調査したのである。
この採集された陶片を資料として、朝鮮陶磁器の歴史をひもとき、ひいては朝鮮半島の文化史を探ることを、浅川は「陶片を読む」と表現したという。浅川は膨大な陶片を読み、整理し、分析して、朝鮮陶磁器の歴史を明らかにしたが、この浅川の取り組みがこの分野における唯一とも言える成果であり、その後の朝鮮戦争や開発行為によって失われた窯跡もあり、今となっては貴重な調査記録となっている。
こうして、朝鮮の芸術文化を深く理解し、その調査・研究に半生を費やした浅川は、実弟の浅川巧と民藝運動を展開した柳宗悦とともに、大正13年(1924)、京城の景福宮内に朝鮮民族美術館を設立している。浅川は、古陶磁の調査・研究や美術館の設立をとおして、日本の統治下において消えゆこうとする朝鮮独自の文化を見つめ、守り、美しさを見いだし、その尊い文化的な資産を現在へとつなぐ架け橋となったのである。
北杜市浅川伯教・巧兄弟資料館ホームページ
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