永峯 秀樹
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
永峯 秀樹
ながみね ひでき
Nagamine Hideki
【生没年】
嘉永元年(1848)生まれ 昭和2年(1927)死去
【出身地】
甲斐国巨摩郡浅尾新田村(北杜市)〈峡北地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
「アラビアンナイト」の和訳をはじめ、明治初期に数々の翻訳をした永峯が、その目的について述べた言葉。「井の中の蛙」では、世界と渡りあうことができないことを見通した、永峯の考えを窺い知ることができる。
【人物の解説】
「アラビアンナイト」の紹介で知られる翻訳家。海軍兵学校で英語を担当した教育者でもある。甲斐国巨摩郡浅尾新田村(現在の北杜市明野町)の小野家に生まれる。父は小野通仙、長兄は小野泉。甲府の徽典館で学び、その後、京都や長崎で遊学する。江戸で幕臣永峯家に入り、江戸幕府の西洋式歩兵部隊である撤兵隊の隊士となるが、徳川宗家の静岡移転に従い沼津兵学校で学ぶ。海外事情や政治思想の原書に触れたことから、近代国家への道のりを歩み始めたばかりの日本にとっての海防の重要性を感じとったことから海軍兵学校に移り、英語や数学の教師として教鞭をとる。教師の仕事のかたわら、『開巻驚奇 暴夜物語』(アラビアンナイト)やギゾー著『欧羅巴文明史』をはじめ、さまざまな海外の著作を翻訳し、海外事情や政治思想の紹介につとめ、近代日本の西洋文化の受容を推進した。号は松軒。姓は永峰と表記されている場合もある。
・年表
年代 |
出来事 |
嘉永元年
(1848) |
甲斐国巨摩郡浅尾新田村(現在の北杜市)の医師小野通仙の四男として生まれる |
安政2年
(1855) |
徽典館で学ぶ |
文久元年
(1861) |
徽典館を出る |
慶応2年
(1866) |
内藤七太郎(元徽典館学頭)に随行し京都へ上り遊学 |
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腸チフスに罹り、広瀬元恭のもとで治療を受ける |
慶応3年
(1867) |
徽典館で学んだ外国奉行平山図書頭に随行し土佐・長崎へ渡る |
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長崎滞在中英語を学ぶ(この間にイギリス人外交官アーネスト・サトウと会う) |
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江戸に出て幕臣永峯家の姓を継ぎ、幕府陸軍の西洋式調練に加わる |
明治元年
(1868) |
江戸開城に際して、撤兵隊の一員として木更津へ脱出 |
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江戸に戻る |
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徳川慶喜に従い静岡へ移住 |
明治2年
(1869) |
沼津兵学校の資業生試験に首席で合格 |
明治4年
(1871) |
東京築地の海軍兵学寮に出仕、数学教師となる |
この頃 |
イギリスからの教師招聘に備えて、英語学習を命じられる |
明治6年
(1873) |
イギリス海軍大尉ベーリーの通訳兼助手となる |
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海軍の航海士官となり、練習艦乾行に乗艦 |
明治7年
(1874) |
近眼のため航海士官の任務から退き、兵学校予科生徒の教員となる |
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ウォーカー著『富国論』を翻訳 |
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ギゾー著『欧羅巴文明史』を翻訳 |
明治8年
(1875) |
『開巻驚奇 暴夜物語』(アラビアンナイト)を翻訳 |
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ミル著『代議政体』を翻訳 |
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『物理問答』を翻訳(甲府の内藤伝右衛門の出版所から刊行) |
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チェストルフィールド著『智氏家訓』を翻訳 |
明治9年
(1876) |
海軍兵学寮が海軍兵学校となる |
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ハスケル著『経済小学 家政要旨』を翻訳(甲府の内藤伝右衛門の出版所から刊行) |
明治10年
(1877) |
兵学校本科の英語と地理学、国際法を担当する |
明治11年
(1878) |
『改正 智氏家訓』を翻訳 |
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自著『筆算教授書』を刊行(甲府の内藤伝右衛門の出版所から刊行) |
明治12年
(1879) |
海軍兵学校教授補となる |
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『興産教授 農学初歩』を編著(甲府の内藤伝右衛門の出版所から刊行) |
明治14年
(1881) |
『華英字典』を翻訳 |
明治19年
(1886) |
海軍兵学校教授となり奏任官四等に叙される |
明治21年
(1888) |
海軍兵学校の広島県江田島への移転に伴い転居 |
明治35年
(1902) |
退官 |
明治37年
(1904) |
自著『人と日本人』を刊行 |
大正7年
(1918) |
コーム著『性相学原論』を翻訳 |
昭和2年
(1927) |
逝去 |
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・エピソード1
【徽典館の縁から「二十歳の独立」】
永峯秀樹は甲斐国巨摩郡浅尾新田村(現在の北杜市明野町)の医者小野家の四男として生まれ、父の小野通仙に「汝は四男なり、独立すべし、二十歳までは家に在りて望む所の事を勉め、二十よりは独立せよ」と言い渡されていた。
永峯は長兄の泉に学んだのちに甲府の徽典館で漢学を学び、剣客のもとで剣術を身に付け、二十歳まであとわずかとなった慶応2年(1866)に、永峯が学んだ徽典館で学頭を務めていた内藤七太郎が、見廻組(幕臣による在京の治安組織)のために開設される文武場に赴任するのに随行して京都へと出かける。ところが、永峯は京都で腸チフスに罹ってしまい、しばらくの療養を余儀なくされる。
慶応3年(1867)になり、京都に永峯が徽典館で教わったことがある外国奉行の平山図書頭(敬忠)が、朝鮮への渡航の命を帯びてやってくる。永峯はこの平山に随行することを頼み、平山の了承を取り付けるが、この平山と行を共にすることが、永峯の運命を大きく動かすことになる。
永峯は平山について大坂(現在の大阪)や土佐(現在の高知県)、長崎などを訪れ、土佐ではイギリス軍艦が談判に来航しているところを目撃し、長崎ではアーネスト・サトウと出会い、英語の学習に取り組んだりしている。
その後、平山の朝鮮渡航の任務は無くなり、永峯は平山とともに長崎から江戸に戻ることになるが、その途中の関門海峡の通過時は、第二次長州征討の幕府側の敗北によって、関門海峡は両岸ともに長州藩が押さえており、間もなく幕府を倒しにかかる長州藩から攻撃されないか、緊張しながらの航海であった。
江戸に戻り、そのまま平山のもとに仕えていたところ、名跡の相続の話が持ち上がり、江戸幕府が倒れる直前に幕府の士族である永峯家を継ぐこととなる。嘉永元年(1848)生まれの永峯は、数え年でちょうど20歳の年に幕府に仕える武士となり、父から命ぜられていた「独立」を果たすことになる。
幕府に仕える身となった永峯は、フランス流の調練を受ける洋式陸軍に所属するが、永峯が一大転機を迎えている間に、幕府は第15代将軍徳川慶喜による大政奉還や鳥羽伏見の戦いの敗北を経て「朝敵」となる。そして、薩摩・長州などの官軍が幕府の本拠地である江戸に迫り、永峯を取り巻く情勢は風雲急を告げていく。
西から迫る官軍に対して江戸は無血開城するが、永峯は撤兵隊という部隊に属して木更津へと脱出する。その後、東北や北海道に転戦することなく江戸に戻り、前の将軍徳川慶喜に従って静岡へ移ることとする。永峯の幕臣生活は、幕府の崩壊によって驚くほどわずかな期間で終わりを告げたが、幕府に仕えたことで、徳川家が転封先の静岡で開いた沼津兵学校にて、さまざまな洋学を学ぶ機会を得ることになるのである。
『農学初歩』(甲府 内藤氏蔵版)の巻末に付された字引
自伝『思出之まゝ』に掲載されている永峯晩年の写真
・エピソード2
【教育者と翻訳家としての永峯秀樹】
永峯秀樹は甲府の徽典館で漢学などの学問の基礎を学び、その後の京都や長崎での遊学経験や、沼津兵学校での学習によって、語学としての英語や、数学、西洋の政治思想や科学、文化といった、広い意味での洋学を身に付ける。
永峯は洋学を学ぶなかで、日本の置かれた状況や、日本と欧米列強とのさまざまな格差を理解するとともに、日本を欧米からの侵略を免れるには、海軍の力を強化する必要があるとの考えにいたる。
永峯は静岡藩政の中核にいた勝海舟の後押しを得て沼津兵学校を辞め、海軍兵学寮(のちの海軍兵学校、現在の海上自衛隊第1術科学校)に入ろうと考えたが、沼津の学校を辞めるのに時間が掛かり、海軍の生徒募集に間に合わなかった。ところが、海軍兵学寮に教官の欠員があったことから、教官としての入校を持ちかけられ、永峯は数学の教官として勤務することとなり、かたわらで、海軍士官としての訓練を行うこととなった。
永峯は間もなく近眼であることが発覚し、海軍士官としての将来は絶たれ、海軍で活躍することで日本の防衛に尽くしていきたいという永峯の意志は閉ざされてしまうが、教官としては、この後約30年間勤め、日本海軍の士官を数多く育成していくことになる。
海軍兵学校で永峯が携わった教科は数学から始まって、英語、地理、国際法なども教授している。永峯は授業以外でも生徒との交流に努めていたようで、休日は自宅を開放して団子や汁粉をふるまったり、生徒と囲碁や議論にも興じたという。永峯は数学については、自らの学才に見切りをつけていたようで、英語などの語学などに傾いていった理由としている。
その本業についても「文章家ともなれば、或は中の上位」(伝記『思出之まゝ』)程度にしか自己評価していないが、このように学業にも向き不向きがあることを、永峯は「精神一到何事か成らざらんといふ語を真理として直進する者は、思慮の足らぬものなり(意味:「やるぞと誓って物事にあたればどんなことでも出来る、と思い込んでいる人は思慮が足りない)」(伝記『思出之まゝ』)と語っている。この考えは、永峯の教育上の考えにも通底していたようで、永峯は続けて以下のように語っている。
「彼等(数学教官)は生徒の数学に対する不成績を生徒の不熱心なるが為なりとして、大いに怒りて、「此位の事がわからぬものは人類ならず」と責むるものあり人類を解せざるものといふべし、余は望む、人の上に立つ者は、人類の機能は如何なるものなりやを知らん事を。」
永峯は教員として多くの子弟を指導し、日清戦争の勝利や日英同盟の締結を見届け、「青年の素望を半ば遂げたり」として、明治35年(1902)7月に30年間の教員生活に別れを告げるのである。
永峯は海軍兵学校の教官として勤務するかたわらで、「一般人民の教化として」(伝記『思出之まゝ』)海外の書籍の翻訳を手掛けるようになる。
永峯の業績で有名なのが、「アラビアンナイト」の和訳紹介として刊行した『開巻驚奇 暴夜物語』(明治8)だが、その他、みずから「可也(かなり)売れたる様なり」(伝記『思出之まゝ』)と振り返ったギゾーの『欧羅巴文明史』をはじめ、ミルの『代議政体』といった政治分野、数学、経済、農業など、数々の翻訳に携わった。こうした翻訳書は東京の書店のほか、甲府の内藤伝右衛門の印刷所でも刊行され、各地の学校の教科書にも使用され、西洋の文化や科学、思想の普及に貢献することになる。
永峯が西洋の書籍の翻訳にあたったこの明治の初期は、英語を理解することも去ることながら、その意味するところの概念や、対応する言葉がまだ日本には無い場合もあり、そうした概念を日本語化した訳語にしたり、従来の言葉で相当するものを充てていくことが、当時の翻訳家や思想家に求められた。つまり英語の能力だけでなく、西洋の新しい概念をかみ砕くだけの日本語や漢学についての十分な素養が必要だったのである。福地源一郎がソサエティ(society)の訳語として作った「社会」という言葉は、永峯の『欧羅巴文明史』に使われたことによって、一般的に広まったとされている。永峯はこうした翻訳を通じて、西洋の新しい概念とそれを伝える新しい日本語を紹介し、日本の西洋文明の受容に大きく貢献したのである。
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