樋口 一葉
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
樋口 一葉
ひぐち いちよう
Higuchi Ichiyou
【生没年】
明治5年(1872)生まれ 明治29年(1896)死去
【出身地】
東京府(麹町区)内幸町(東京都千代田区)〈その他〉
【パネルの言葉を残した背景】
樋口が自らの作家人生について語った言葉。夭折したために数は多くないものの、若くして我が国文学史上に光る作品を遺した、その才気のほとばしりを感じる言葉。
【人物の解説】
明治時代の小説家。本名は「なつ」(「奈津」とも)。甲斐国山梨郡中萩原村(現在の甲州市)出身の父樋口則義、母たきの間の次女として生まれる。成績優秀だったが進学は母の反対によって許されず、父の勧めで短歌を習ったことから、小説など文学の世界に入っていく。短編小説や随筆を立て続けに発表し、小説家としての評価を得るが、父や早世した長兄に代わって一家を支える苦しい生活のなかで夭折。満24歳の生涯のなかで、世に出し得た短編小説などは30にも満たないが、女性作家の第一人者として高く評価されている。
・年表
年代 |
出来事 |
明治5年
(1872) |
東京府で生まれる |
明治10年
(1877) |
満4歳で小学校に入学するも、幼齢のために退学
その後私立吉川学校、青海学校で学ぶ |
明治16年
(1883) |
青海学校の高等科4級を首席で卒業 |
明治19年
(1886) |
中島歌子の歌塾・萩の舎(東京小石川)に入門 |
明治21年
(1888) |
家督を相続 |
明治22年
(1889) |
小説を書き始める |
明治24年
(1891) |
日記「若葉かげ」を書き始める
半井桃水に師事する |
明治25年
(1892) |
処女作「闇桜」が『武蔵野』に掲載される
半井桃水との師弟関係を解消
野尻理作の求めにより「甲陽新報」へ「経つくえ」を寄稿
「うもれ木」が『都の花』に掲載される |
明治26年
(1893) |
「暁月夜」が『都の花』に掲載される
荒物・駄菓子店を営む(翌年まで) |
明治27年
(1894) |
「花ごもり」、「大つごもり」が『文学界』に掲載される |
明治28年
(1895) |
「ゆく雲」が『太陽』に掲載される
「にごりえ」が『文芸倶楽部』に掲載される
「たけくらべ」が『文学界』に掲載される |
明治29年
(1896) |
森鴎外・幸田露伴に「たけくらべ」が絶賛される
結核が悪化して逝去 |
|
|
・エピソード1
【小説家・樋口一葉の「奇跡の14か月」】
樋口一葉は満24歳の若さで逝去してしまうが、明治27年(1894)12月に「大つごもり」を発表してから、逝去する年となる明治29年(1896)2月に「裏紫」を発表するまで、代表作となる「たけくらべ」など、数多くの作品を連作しており、この逝去直前の多作の時期を指して、「奇跡の14か月」とも称されている。この時期に刊行された主な作品は、以下のとおりである。
・「大つごもり」 明治27年12月に『文学界』に掲載
・「たけくらべ」 明治28年1〜12月に『文学界』に掲載
・「ゆく雲」 明治28年5月に『太陽』に掲載
・「軒もる月」 明治28年4月に「毎日新聞」に掲載
・「うつせみ」 明治28年8月に「読売新聞」に掲載
・「にごりえ」 明治28年9月に『文芸倶楽部』に掲載
・「十三夜」 明治28年12月に『文芸倶楽部閨秀号』に掲載
・「この子」 明治29年1月 に『日本之家庭』に掲載
・「わかれ道」 明治29年1月 に『国民之友附録』に掲載
・「裏紫」 明治29年2月に『新文壇』に掲載
これらの作品は、文壇からの評価も得て、森鴎外などが高く評価しているが、明治29年(1896)11月、樋口は肺結核のためにこの世を去る。
没後も樋口の作品は人々をひきつけ続け、全集や日記の刊行も進められる。そして、27回忌の大正11年(1922)に、父母の出身地である大藤村中萩原(現在の甲州市)にある慈雲寺に、生前の樋口を評価していた幸田露伴の撰文による「一葉女史碑」が建てられた。
慈雲寺(甲州市)の一葉女史碑
<「たけくらべ」を評した森鴎外「三人冗語」(雑誌『めざまし草』掲載)の一節>
「われは作者が捕へ来りたる原材とかの現じ出したる詩趣とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり。(中略)まことに獲易からざる才女なるかな。」
「たけくらべ(真筆版)」 山梨県立博物館蔵
・エピソード2
【樋口一葉と山梨とのゆかり】
樋口一葉の父則義、母たきは、甲斐国山梨郡中萩原村(現在の甲州市)の出身であり、山梨県にゆかり深い作家であると言える。
そうした樋口と山梨とのゆかりは、樋口を取り巻く人間関係や作品にも表れている。樋口の両親は、もとの名を大吉とあやめといい、結婚に反対されたことから、江戸へ駆け落ちする。そこで大吉(則義)は、郷土の先輩で父(樋口一葉にとっては祖父の樋口八左衛門)の友人でもある真下晩ッの助けを借りながら幕府の公用に就き、慶応3年(1867)には同心株を買い取り、武士の身分を手に入れる。
この真下の孫である渋谷三郎(のち阪本家に養子入りして阪本三郎)は、多摩郡原町田村(東京都町田市)に生まれ、10代を自由民権運動のなかで過ごし、明治18年(1885)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した将来有望な学生であった。
渋谷は祖父との縁があったことにより、樋口家に出入りしていた。このころ、渋谷は18歳、樋口は13歳だったが、ふたりは許婚の間柄とされたが、樋口の父則義が亡くなったのち、この縁談は破談となっている。この渋谷改め阪本三郎は、その後高等文官試験(当時の国家公務員の登竜門となる試験)に合格し、大正5年(1916)4月に第20代山梨県知事(官選)に就任している。
慈雲寺(甲州市)の真下晩ッ先生碑
その他の人間関係としては、郷里の大物である田辺有栄が樋口家を訪れたことを、「突然に田辺有栄君にとはる、狼狽の事、意味有気なる物語の事」(「蓬生日記」明治24年11月9日の項)と日記に記していたり、樋口の日記からは、樋口家には多くの甲州人との連絡や行き来があったことがわかる。
小説家として本格デビューする前の明治24年(1891)に執筆した随筆「森のした艸」には、甲州財閥の首領の若尾逸平のことを記していたり、明治25年には竹森村(現在の甲州市)出身の野尻理作が編集に関わった山梨の新聞「甲陽新報」に「経つくえ」を寄稿しており、作品にも父母の故郷である山梨が見え隠れする。
その山梨の風景を描いている代表的な作品が、明治28年(1895)刊行の小説「ゆく雲」である。「ゆく雲」は、父母の故郷の大藤村(樋口の父母出奔時の中萩原村、現在の甲州市)の情景を背景に、大藤村出身の青年の淡い慕情とその儚さを描いている。樋口一葉は、一度も山梨の地を訪れることなく世を去ったとも言われるが、このように山梨との深い関わりのなかで生き、その作品にも数多く山梨が描かれている。
<若尾逸平について記した「森のした艸」の一節>
「若尾逸平といふ人はかひの国山梨の郡にいとかすかなる商人などにや有けん、其土地にも暮しわびて江戸にのぼりてなりはひの道もとめんとて出で立ぬ、八王子あたりには有けん一夜宿りて夜中過る頃ふと目覚ぬれば次の間にて人二人斗ものがたる也、甲州といふこと耳に入て猶よく聞けばこの頃横浜の沖に外国船多く来てこの国の物産をあがなひ行くといふ、水晶などは殊に高価なるべければあすはかしこに趣きて人しらぬこそよけれ極めて安直に買しめ置ば一攫千金なるべしという。あなかま壁に耳ありというは今一人なるべし、聞とやがて支度とゝのへて其夜はいもねずあくるまだきに宿をおこして早だちす、かの人々はよべ酒打のみなどせし様成しがまだ明るをもしらずやありけん夢路をたどる最中成けり、仕合よしと打喜びて其日の中に甲府へつきぬ、勝手はかねてしりたり、其道の人々にときありきて残りなくおのがかふべき約定斗取定めぬ、かゝる折しも買はんといふ人は致りつきてさてみるに塵斗も残らず若尾が物に成ぬといふ
(中略)
それより家道朝日のゝぼるがごと興り行きて甲府の本宅横浜の出店とも大方人のめをおどろかすめり去年国会開設に際し山梨県下多額納税議員として撰出せられにたり、聞ならく江戸に志ざして出で立しは卅歳あまりの時成しか」
<若尾逸平について記した「森のした艸」の現代語訳>
「若尾逸平という人は、甲斐の国(原文では「山梨の郡」とあるが実際は巨摩郡)の小さな商人でした。甲州に暮らしづらくなり、江戸に上って商売の方法を探そうとしました。八王子あたりの宿で泊まることにしたところ、夜中にふと目覚めると隣の部屋の話し声が聞こえてきました。その会話に「甲州」という言葉が入っていたので、より気になって聞いてみれば、このごろ横浜に外国の商船が多く来港していて、日本の品物を購入していくらしく、水晶などは特に高く売れるので、明日はそこへ行って、事情を知らない甲州の人たちから水晶を安く買い占めてしまえば一攫千金を狙える、という内容だったのです。静かにしなければ、「壁に耳あり」ということがあるが、聞いているのは自分一人であろう。若尾は聞き終わるとすぐに旅支度を整えて、その夜は眠りもせず、夜が明ける前に宿を出ました。水晶の話をしていた人々は、お酒を飲んだりしていたようで、夜が明けたことすら気が付かずにまだ寝ていることであろう。幸運だったと喜びながら甲府に着き、甲府は前からよく知っている所なので、水晶関係の商人たちを口説いて歩いて、すっかり自分が買うという約束を取り付けました。そのような頃に、水晶を買おうとする人が到着しましたが、チリほどの水晶も残ることなく、全て若尾の物になったと水晶関係の商人たちは言いました。
(中略)
その水晶による大儲け以来、若尾家は朝日が昇るように繁栄していき、その繁栄ぶりは甲府の若尾本家も横浜の分家とも、多くの人を驚かすようです。若尾逸平は去年の明治23年(1890)の国会開設にあたって、山梨県からの貴族院多額納税者議員になりました。人々の話を聞いてみると、若尾逸平が志を立てて江戸に出たのは30歳すぎの時のことだと言います。」
<「ゆく雲」冒頭>
「酒折の宮、山梨の丘、塩山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小仏さゝ子の難処を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし。甲府は流石に大厦高楼、躑躅が崎の城跡など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車に一昼夜ゆられて、いざ恵林寺の桜見にといふ人はあるまじ」
上に戻る
|