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第13回展示紹介人物

内藤多仲の顔写真と言葉



内藤 多仲


プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2 エピソード3 エピソード4

・プロフィール
【人物の氏名】

内藤 多仲
ないとう たちゅう
Naitou Tachuu

【生没年】
明治19年(1886)生まれ 昭和45年(1970)死去

【出身地】
山梨県中巨摩郡榊村(南アルプス市)〈峡中地域〉

【パネルの言葉を残した背景】
わが国の耐震建築の第一人者であった内藤が、地元の子どもたちに与えた言葉。「塔博士」とも称され、東京タワーをはじめとしたタワーや大建築を数多く手掛けた内藤の、基礎の重要さを説く言葉はひとしお含蓄深い。

【人物の解説】
日本の耐震建築に発展をもたらした建築構造学者。多くの耐震建築を手がけ、「耐震構造の父」と称される。また、東京タワーをはじめ、テレビ時代の到来とともに各地に建設された電波塔の多くを手掛けたことから、「塔博士」とも称される。中巨摩郡榊村(現在の南アルプス市)に生まれ、県立第一中学校(のちの県立甲府中学校、現在の甲府第一高校)を卒業後、旧制第一高校、東京帝国大学、同大学院で建築を学ぶ。東京帝国大学では当初造船学を学ぶが、のち建築学に転科し、建築構造学の大家であった佐野利器に師事する。大学卒業後、早稲田大学に勤務し、戦後にいたるまで奉職。関東大震災に際しては、構造設計にあたった日本興業銀行と歌舞伎座が無事だったことから、内藤の耐震理論が実証される。山梨県関係でも、県民会館や県庁舎本館の設計にあたっている。

・年表

年代 出来事
明治19年
(1886)

山梨県中巨摩郡榊村(現在の南アルプス市)の内藤家の長男として生まれる

明治37年
(1904)
山梨県立第一中学校(のちの県立甲府中学校、現在の甲府第一高校)を卒業
この頃 第一高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に学ぶ
明治43年
(1910)
東京帝国大学建築学科卒業、その後大学院にて学ぶ
  早稲田大学講師に就任
明治45年
(1912)
東京帝国大学大学院を修了
  早稲田大学教授に就任
大正5年
(1916)
結婚
大正6年
(1917)

アメリカ留学

大正7年
(1918)

帰国

  『建築構造学』(早稲田大学出版部)を刊行
大正11年
(1922)
論文「架構建築耐震構造論」を『建築雑誌』に発表
大正12年
(1923)

関東大震災の調査にあたる

大正13年
(1924)
論文「架構建築耐震構造論」により工学博士となる
  『架構建築耐震構造論』(早稲田大学出版部)を刊行
昭和4年
(1929)

『建築構造要覧 上・下』(早稲田大学出版部)を刊行

昭和10年
(1935)

山中湖畔で徳富蘇峰と親交

昭和12年
(1937)
欧米視察
昭和13年
(1938)
早稲田大学高等工学校の校長となる(翌年まで)
 

溶接学会の会長に就任(昭和15年まで)

昭和14年
(1939)
早稲田大学内に専門部工科を設立し科長に就任(昭和19年まで)
昭和16年
(1941)
早稲田大学理事に就任(昭和21年まで)
 

日本建築学会会長に就任(昭和18年まで)

昭和19年
(1944)

早稲田大学理工学部長、理工学研究所長に就任

昭和20年
(1945)
日本建築学会会長に再任(昭和22年まで)
昭和24年
(1949)
日本建築学会名誉会員となる
昭和29年
(1954)
日本学術会議会員となる
昭和32年
(1957)
早稲田大学を定年退職し、同大名誉教授となる
昭和33年
(1958)
設計にあたった東京タワーが完成
 

紺綬褒章を受章

昭和34年
(1959)
紫綬褒章を受章
  首都高速道路公団技術委員会委員に就任
昭和35年
(1960)

日本学士院会の会員となる

  東京タワーの設計により第1回建築協会賞を受賞
  国際地震工学研修会委員に就任
昭和37年
(1962)

文化功労者顕彰を受ける

 

櫛形町名誉町民に推挙される

昭和38年
(1963)

NHK放送文化賞を受賞

  早稲田大学名誉博士を贈られる
昭和39年
(1964)
勲二等旭日重光章を受章
  エッフェル塔75周年に際してフランスを訪問
昭和40年
(1965)
『日本耐震建築と共に』(雪華社)を刊行
昭和44年
(1969)
国際地震工学会名誉会員となる
昭和45年
(1970)
逝去
  従三位を追贈される
   


・エピソード1
【学業に取り組む】
内藤多仲は中巨摩郡榊村(現在の南アルプス市)に生まれ、山梨県立第一中学校(のちの県立甲府中学校、現在の甲府第一高校)で学ぶ。決して恵まれた環境ではなかったなか、家族の支援を得て内藤少年は勉学に励んだとされている。
旧制中学では、内藤は学業だけでなく文芸活動も盛んに取り組んでいたようで、同校の『校友会雑誌』には、内藤の論説や新体詩などがたびたび掲載されている。
内藤の在学した当時は、札幌農学校のクラーク博士に学んだ大島正健校長の在任中で、同時期にのち内閣総理大臣となる石橋湛山(省三 せいぞう)や文学者中村星湖(将為 まさため)も在学しており、大島校長からの薫陶や、同級生との切磋琢磨のなかで、さまざまな刺激を受けた学生生活だったと思われる。
なお、同校の数学年上級には東京地下鉄道を設立する早川徳次も在学しており、内藤自身が早川の進学した早稲田大学(石橋と中村も早稲田に進学)の教授となった縁もあってか、内藤は早川の経営する東京地下鉄道関係の建築設計に関わることとなる。
内藤は旧制中学校卒業後、上京して旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部などの前身にあたる)に進み、その後、東京帝国大学(以後「帝大」)に進学する。帝大では当初造船学を志したが、思うところがあって建築学に進路を変更する。
帝大では建築構造学の大家であった佐野利器(山形県白鷹町出身 同町ホームページ掲載情報)に師事し、明治43年(1910)に卒業。帝大大学院に進学すると同時に早稲田大学の講師に就任(2年後に教授に就任)し、以後退官する昭和32年(1957)まで、早稲田大学で建築学の研究と教育に尽力し、多くの研究成果と人材の育成に寄与している。

旧制中学4年の内藤が寄稿した論考「発明と其の緒」(『 校友会雑誌』明治35年12月第16号)
旧制中学4年の内藤が寄稿した論考「発明と其の緒」(『 校友会雑誌』明治35年12月第16号) 山梨県立博物館蔵


山梨県中学校卒業写真(内藤は2列目右から4人目) 個人蔵
山梨県中学校卒業写真(内藤は2列目右から4人目) 個人蔵

早川徳次とともに聖智寮の開館に際して(昭和13年4月29日 右に早川徳次、中央に内藤多仲 個人蔵)
早川徳次とともに聖智寮の開館に際して(昭和13年4月29日 右に早川徳次、中央に内藤多仲) 個人蔵


・エピソード2
【耐震建築の父】
内藤多仲
の最大の業績は、日本における耐震建築の確立と、その普及を果たしたことにある。内藤が建築学を志した頃は、日本においても鉄骨や鉄筋コンクリートによる建築が広がり始めた時代で、内藤は地震の多い日本に適応する建築構造の研究を進めていくことになる。内藤は建築設計に必要なデッサンが苦手だったが、建築学のなかでも構造設計が重要であることを学び、建物の構造計算による耐震構造の研究を深めていく。
そうしたなかで、内藤は恩師である佐野利器から、ドイツ土産として計算尺という器具をプレゼントされる。計算尺とは、3つの部品からなるアナログ式の計算用具で、内藤はのちのちまでこのわずか14センチメートルの計算尺を肌身離さず愛用し、東京タワーの基本的な計算もこの計算尺でやってのけたのである。
その後、内藤は大正6年(1917)にアメリカに留学するが、このアメリカ渡航の際に、なかに仕切りの板が入っているトランクは、変形も少なく頑丈であることに気付き、これが内藤の耐震構造理論の確立へのヒントとなったとされ、耐震壁の設置などに見られる内藤の耐震構造の特徴につながっているとされる。翌年にアメリカ留学から帰国した内藤は、耐震構造の研究を進めて、「架構建築耐震構造論」を発表するとともに、様々な建築の構造設計を担当していった。
このように内藤が耐震構造の研究と実践を世に出し始めたころ、大正12年(1923)9月1日、東京を中心とする地域に関東大震災が襲い掛かる。地震の規模はマグニチュード7.9で、その被害は全壊家屋と死者ともに10万を超えた。この日本近代史上最大級の自然災害のなかで、東京に建ち始めていた近代的なコンクリートのビルは軒並み大きな被害を受けたが、内藤が手掛けた日本興業銀行と歌舞伎座は、ほとんど地震による損害を受けずに済み、内藤の耐震構造の理論の正しさが証明されたのである。
その後、内藤は耐震構造の第一人者として、多くの建築の耐震構造設計を担当し、地震大国日本における耐震建築の普及に大きく貢献していくのである。

計算尺を手にする内藤多仲(個人蔵)
計算尺を手にする内藤多仲 個人蔵

内藤のイニシャル(T.N.)が入ったトランク(ただし、建築上のヒントを得たものとは別とされる) 個人蔵
内藤のイニシャル(T.N.)が入ったトランク(ただし、建築上のヒントを得たものとは別とされる) 個人蔵

関東大震災で倒壊した「浅草十二階」こと凌雲閣(山梨県立博物館蔵)
関東大震災で倒壊した「浅草十二階」こと凌雲閣 山梨県立博物館蔵


・エピソード3
【東京タワーを生んだ「塔博士」】
日本最初の放送は、大正14年(1925)に始まった社団法人東京放送局(現在のNHK)によるラジオ放送である(3月22日仮放送、7月12日本放送開始)。
このラジオ放送を開始するため、東京の愛宕山(現在の東京都港区にある丘、今はNHK放送博物館が建っている)にラジオの電波塔と放送局が建設されることとなった。内藤多仲はこれらの建設にあたり、高さ45メートルの日本初の電波塔を設計し、その後も竹の子のような形の数多くのラジオの電波塔を手掛けていく。
戦後、日本にもテレビ放送の時代が訪れ、昭和28年(1953)にテレビ本放送が開始される。その後、テレビ局が増加していくにしたがって、大都市部ではそれらのテレビ局の電波を集約して発信するため、大きな電波塔の設置が計画されるようになる。内藤はこのテレビの電波塔(展望台も含む)を数多く手掛け、名古屋テレビ塔(昭和29年完成、高さ180メートル、名古屋市中区)をはじめ、各地に内藤の設計による電波塔が建設され、現在でも電波塔、展望台、ランドマークとして活躍している。
こうした数々の塔の設計にあたって、「塔博士」とも称された内藤の作品のなかで、最も有名にして最大のものが東京タワー(東京都港区芝公園)である。東京タワーは東京の集約電波塔として計画され、昭和32年(1957)6月に着工し、翌年の昭和33年(1958)10月に完成した(一般公開は12月から)、高さ333メートルの日本一の高さを誇る自立式鉄塔(当時、現在は634メートルの東京スカイツリーが第1位)である。
東京タワーはフランスのエッフェル塔(312メートル、現在は324メートル)を抜きつつも、使用された鋼材はエッフェル塔の半分以下で済んだことを、後年エッフェル塔75周年記念祭のためにフランスへ招待された際の内藤が述べている。
現在でも多くの人々に愛されている東京タワーだが、内藤は東京タワーの設計のなかで、特にデザイン上の配慮はしていないという。その美しさは意図したものではなく、無駄がなく、安定したものを追及した結果できたもの、いわば数字が作った美しさだという趣旨のことを語ったとされている。内藤は設計にあたっては「構造合理性」を重要視していたとされ、東京タワーは、力学的に無理のない建築を突き詰めていった内藤の最高の作品となったのである。
このように、内藤は耐震建築や電波塔の建設など数々の業績を残し、その残したものは現在でも私たちの暮らしのなかに息づいているのである。

東京タワーの青焼き図面(個人蔵)
東京タワーの青焼き図面 個人蔵

内藤設計の名古屋テレビ塔(個人蔵)
内藤設計の名古屋テレビ塔 個人蔵

内藤設計のさっぽろテレビ塔(平成19年撮影)
内藤設計のさっぽろテレビ塔(平成19年撮影)


・エピソード4
【設計に携わった主な建築】
《大正時代》
山梨共修社、大阪高島屋百貨店、大阪商船神戸支店、日本興業銀行、歌舞伎座、中央電信局、早稲田大学図書館、JOAK愛宕山放送局鉄塔、東京電燈千住火力発電所、鶴見火力発電所、早稲田大学大隈記念講堂

《昭和戦前期》

東京地下鉄道上野駅、第十銀行東京支店、明治生命本館、日本銀行本店増築、大丸百貨店心斎橋店、大阪千里放送所、共立女子大学講堂、聖智寮、満州中央銀行、満州松花江発電所、天津火力発電所、石景山火力発電所

《昭和20年代》
広島平和記念聖堂、日活国際会館、産経会館、東京厚生年金病院、名古屋タワー、神戸新聞会館、根津美術館

《昭和30年代以降》
大阪通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、山梨県民会館(ホール)、早稲田大学記念会堂、山梨共修社、朝日新聞東京本社、内藤多仲記念館、東京タワー、山梨県民会館(事務所棟)、甲府市役所、早稲田大学文学部、大阪逓信病院、大阪市立大学付属病院、東芝浜川崎工場、日本軽金属蒲原工場、山梨県青少年文化センター、山梨県庁舎本館、日生劇場、吉池ビル、日本生命日比谷ビル、鶴見総持寺本堂、博多ポートタワー、新宿区役所、甲陽病院、信玄公宝物館、遠光寺

「設計監督 工学博士 内藤多仲」と刻まれた県庁舎本館の定礎
「設計監督 工学博士 内藤多仲」と刻まれた県庁舎本館の定礎(平成25年撮影)

公会堂棟と会館棟が完成した県民会館(『山梨県民主議会史』より)
公会堂棟と会館棟が完成した県民会館(『山梨県民主議会史』より)

解体される直前の県民会館(会館棟・平成25年撮影)
解体される直前の県民会館(会館棟・平成25年撮影) 現在、跡地は芝生広場(山梨県ホームページ)として整備


南アルプス市立図書館内 ふるさと人物室「建築家 内藤多仲博士×信念「積み重ね 積みかさねても またつみかさね」」(平成28年10月から同29年3月まで開催) 開催情報


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