野口 英夫
プロフィール 年表 エピソード1 展示資料解読
・プロフィール
【人物の氏名】
野口 英夫
のぐち えいふ
Noguchi Eifu
【生没年】
安政3年(1856)生まれ 大正11年(1922)死去
【出身地】
阿波国板野郡(徳島県)〈その他〉
【パネルの言葉を残した背景】
「山梨日日新聞」第4500号を記念する社告で述べられた言葉。他県出身者ながら、「徳島生まれの山梨県人」と言われ、県会議員や甲府市の要職を歴任しながらも、経営する新聞では党派によらず中立の新聞人としての態度を貫いた。
【人物の解説】
徳島県生まれの言論人、新聞経営者、政治家。甲府の徽典館(甲府学問所)の学頭を務めた経験がある中村敬宇(正直)の門下にいたが、山梨日日新聞の主筆に迎えられる。その後、内藤伝右衛門から新聞の経営権を譲り受け、同紙の発展に尽力する。山梨県議会や甲府市政でも活躍し、「徳島生まれの山梨県人」と称された。政治家でありつつも、新聞人としての節度を保ち、新聞経営においては、政治的立場からは一線を画したとされる。
・年表
年代 |
出来事 |
安政3年
(1856) |
阿波国板野郡(現在の徳島県)の藍問屋の四男として生まれる(幼名は長十郎) |
時期不詳 |
いったん出家するが還俗して英夫と名乗る |
明治6年
(1873) |
上京して中村敬宇(正直)の同人社で学ぶ |
明治12年
(1879) |
内藤伝右衛門の「甲府日日新聞」の主筆として甲府に招かれる |
明治13年
(1880) |
「甲府日日新聞」主幹に就任
「甲府日日新聞」社長に就任 |
明治14年
(1881) |
「甲府日日新聞」から「山梨日日新聞」に改題 |
明治15年
(1882) |
内藤伝右衛門から「甲府日日新聞」の経営権を譲られる
若尾逸平らと立憲保守党を結成 |
明治18年
(1885) |
山梨県会議員に就任 |
明治22年
(1889) |
甲府市参事会員に就任 |
明治24年
(1891) |
甲府市会議員に就任 |
明治27年
(1894) |
第3回衆議院総選挙に出馬し落選 |
明治33年
(1900) |
県会議長に就任 |
明治36年
(1903) |
県会議員から退く |
大正6年
(1917) |
甲府市会議員から退く |
大正11年
(1922) |
逝去 |
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・エピソード1
【山梨の新聞業の基礎を作った「徳島生まれの山梨県人」】
野口英夫は、明治12年(1879)に内藤伝右衛門が経営する「甲府日日新聞」の主筆に招かれて以来、故郷の徳島には2度しか帰らなかったと言われている。
野口の甲府行きには、野口の恩師である中村敬宇(正直)が甲府徽典館の学頭に赴任した経験があるという縁もあったが、その中村は1年あまりで甲府から江戸に帰り、留学を経て同人社を設立していることから、野口もどれほどの期間を山梨で過ごすつもりであったかは定かではない。しかし、野口は山梨の新聞業の礎を築き、また県会議員や甲府市参事会員など山梨政界で活躍し、「徳島生まれの山梨県人」とまで称されるようになる。
野口は明治12年(1879)に「甲府日日新聞」の主筆に就任し、しばらくして主幹に就任する。時おりしも自由民権運動が盛り上がるなか、ライバル紙である民権派の「峡中新報」が売り上げを伸ばしていた。そうした部数競争のなかで、野口は主幹に就任するに際して、内藤に編集と経理を分離する経営改革を提案し実現させる。
こうして、新聞社の基礎固めを成し遂げた野口に、内藤は新聞社の経営権を譲渡することを決断し、自らは印刷・出版業に専念することにする。その後の野口は、山梨県会や甲府市会での議員としての活動もはじまり、山梨県会では八巻九萬らと交友を持ち、県会議長にも就任する。野口は政治家としての色合いを増していきつつも、選挙などに新聞を私用することはなく、「先人の言葉」にもあるように、常に公平な新聞経営であったとされ、野口の演説や記事も常に定評を得ていたとされている。
こうして、内藤が苦労して立ち上げ、野口が基盤を固めた「山梨日日新聞」(明治14年1月改題)は、現在でも現存する最古の地方紙として山梨の人々にたくさんの情報を届けている。
社告を掲載した「山梨日日新聞」第4532号(明治23年2月28日号) 山梨県立博物館 蔵
・展示資料解読
【野口英夫差出浅尾長慶宛書簡 山梨県立博物館蔵】
<解読文>
拝呈 昨日古川
技師ニ面会致候
処、今回ハ敷地収
用が第一之用向
なるが如くニ被察申候。
且甲府市之分ニ就
てハ餘程面倒之
事あるらしく被申
居候。今日県庁ニ
沿道郡長之会
合あるハ主として、此
件ニ係るもの之様子ニ
有之候。然処御用
都合ニ依りて、同氏今夕
滞留することニ相成
候ハヽ、佐竹氏と共ニ
会見之事を約し
置申候。此場合貴
見ニも御会同被
下候様致度、後刻
確定次第更ニ知
報可仕候得者、右
御含置願度候。
二月廿六日 草々
浅尾大兄 野口
<手紙の内容>
拝呈 昨日古川技師(鉄道技師で笹子隧道の設計を担当した古川阪次郎のことか)に面会しましたところ、今回は中央線建設の用地収用が第一の目的であるように見受けられました。
また、甲府市の土地収用については、かなり面倒なことがあるように申しておりました。
今日県庁に中央線沿線の郡長(当時は山梨県の九つの郡に郡長がいました)の会議がありますが、おもな目的はこの土地収用にかかわるもののようでございます。
そのようなところで、業務の都合によって、古川氏は今日の夕方にはご滞在されることになりましたので、佐竹氏(第十銀行頭取の佐竹作太郎か)と一緒に面会の約束をお願いしておきました。
古川氏との面会にあたっては、あなた(野口のこと)にもご参加いただきたく思いますので、のちほど面会の約束が確定したところで、もう一度お知らせいたします。このことについて、ご考慮いただきますようよろしくお願いいたします。
二月二十六日 草々
浅尾長慶様 野口英夫
※浅尾長慶(あさおながよし 1859〜1926)
山梨郡中小河原村(甲府市)出身の政治家
野口とは立憲保守党の結成で協力した関係
【野口英夫差出野口いし宛書簡 山梨日日新聞社蔵】
<解読文>
拝啓 塩見老母之
容体ハ昨夜電話ニ
て、御咄致候通リニて、
今朝更ニ向島よりの
電話ニ依れは、其後
之経過も良好ニ付、
今日雨中来るに
及ばすとの事ニて有之
候。此分ニて察するに
ヨシ全快ハ覚束
なくとも、急激之変
化ハ可無之と被思候。
主格医者之語る所
も、よく病状と適合
致居候。何様老体
之事故気永く安
静ニ養生致候外、別
段新工風も無之事
と被思候。
今日文子之所ヘ衣
類相届け申候、今日ハ
同窓会之日故、当方
ヘ来ること出来兼候
趣申来り候。
(略)
<手紙の内容>
拝啓 塩見の家の老母(妻の母)の容体は、昨夜の電話でお話ししたとおりで、今朝あらたに向島(姓か地名かは不詳)からの電話で聞いた話では、その後の経過も良好なので、今日雨のなかをわざわざ来るほどではないとのことでした。
このようすでは、一気に全快することはなかなか難しいかもしれないですけども、急に具合が悪化することはないように思います。
主治医がおっしゃることも、病状と一致しているように思います。
いずれにせよ、高齢者でもあることですし、気長に治療するほかには、特によい方法もないのではないかとも思います。
今日、文子(次女ふみのことか)の所へ衣類を届けることになってます。彼女からは今日は同窓会があるので、こちらには来ることができないと連絡がありました。
(略)
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