近藤 喜則
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
近藤 喜則
こんどう よしのり
Kondo Yoshinori
【生没年】
天保3年(1832)生まれ 明治34年(1901)死去
【出身地】
甲斐国巨摩郡南部村(南部町)〈峡南地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
近藤が設立した蒙軒学舎の設立の主意として掲げられた言葉。教育の方針を、生き方や学ぶ意味と目的を、生徒自ら悟り得ることとしている。明治時代の立身出世主義のなかで、とても含蓄深い教育論と言える。
【人物の解説】
巨摩郡南部村(現在の南部町)の本陣・近藤家に生まれる。椎山、殖産人の号を持つ。名の読みは、「よしのり」とも「きそく」とも呼ばれる。父を助け早くから村政に携わり、韮山代官の江川太郎左衛門英龍(坦庵)に影響を受け、江川の座右の銘である「敬慎第一実用専務」を自らの規範にしたとされる。明治維新後、私塾「聴水堂」のち「蒙軒塾(学舎)」を設立して近隣の子弟の教育に努めたほか、地域の特産である三椏(みつまた 紙の原料)の増産のために殖産社を設立するなど、地域の発展に尽力した。明治12年(1879)には初代県会議長に就任している。画家の近藤浩一路は孫。
・年表
年代 |
出来事 |
天保3年
(1832) |
甲斐国巨摩郡南部村(現在の南部町)の本陣近藤家に生まれる
幼名喬次郎、のちに東左衛門と名乗る |
天保12年
(1841) |
手習や算術を学び始める |
嘉永元年
(1848) |
駿河国吉原(静岡県富士市)の叔父のもとに移り、天野元章より漢学を学ぶ
叔父ともに江戸・日光へ旅行 |
嘉永4年
(1851) |
父の代理で村政や郡中惣代の仕事を担う |
嘉永6年
(1853) |
結婚
家督を継ぐ |
この頃 |
韮山代官の江川太郎左衛門英龍の影響を受ける |
万延元年
(1860) |
長崎に遊学 |
明治2年
(1869) |
私塾「聴水堂」を創立(のちの「蒙軒学舎」) |
明治5年
(1872) |
巨摩郡第三十五区区長に選出 |
明治6年
(1873) |
藤村紫朗権令(のち県令)が着任
喜則と改名
「聴水堂」が「蒙軒塾(学舎)」と呼ばれるようになる |
明治8年
(1875) |
地方官会議出席の藤村県令とともに上京中、富士川舟運で遭難
義立南部病院を設立
山梨県学区総代に就任 |
明治9年
(1876) |
三椏増産のために「殖産社」を設立
義立南部病院が県立病院の分院となる
「蒙軒学舎」にC・S・イビー博士を招く |
明治10年
(1877) |
山梨県最初の議会(一蓮寺議会)の議員に選ばれる |
明治12年
(1879) |
山梨県議会議員となり、初代議長となる |
明治13年
(1880) |
議長を辞する |
この頃 |
睦合学校の予算不足を私費で補填 |
明治19年
(1886) |
三椏の産業講師として全国を巡回 |
明治21年
(1888) |
息子の蕗太郎と麟次郎(浩一路の父)が相次ぎ死去、「蒙軒学舎」休校 |
明治22年
(1889) |
「殖産社」解散 |
明治24年
(1891) |
緑綬褒章を受ける(一度も佩用せず) |
明治34年
(1901) |
逝去 |
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・エピソード1
【殖産社の設立】
写真の近藤喜則が右手に握りしめているものは何だろうか。これは、近藤が生産の拡大に力を入れた紙の原料となる植物・三椏と言われている。
近藤は、地元の河内地域(峡南地域)が、富士川の流れる谷間の地形であるために、土地が狭く日当たりが悪いために物産に乏しく、そのために人々の暮らしが貧しいことを憂慮して、地域の特産である三椏の増産・普及に取り組む会社・殖産社を立ち上げることとした。
近藤の尽力により、この地域の三椏が大蔵省に紙幣用の紙原料として納入されることになり、三椏の増産はこの地域の農業経済を少しずつ潤していき、生糸・織物などに次ぐ、山梨県を代表する生産物へと成長していった。これは勧業政策に熱心であった藤村紫朗県令の後押しという背景もあったが、近藤はこのように地域産業の振興に力を入れ、自らを「殖産人」とも号するほどであった。
富岡敬明が記した椎山翁追悼集の序文 山梨県立博物館蔵
・エピソード2
【蒙軒学舎の設立とイビーの招聘】
若き日に江川太郎左衛門に私淑し、開明的な考えを持っていた近藤喜則は、地域の文明・文化の発展を促すために、地域の人々に教育を施す機関を設ける必要を感じていた。
戊辰戦争も終息した明治2年(1869)、近藤のもとに逃げ込んだ旧幕臣豊島佳作を講師とした私塾を寺の一隅に開き、これを「聴水堂」と名付け、付近の子供たちを集めて、和漢の書物の輪読や講義といった授業が始められた。この私塾は、明治6年(1873)に「蒙軒塾(学舎)」と呼ばれるようになったとされ、明治8年ごろには洋書も授業に取り入れられるようになる。
そうしたなかで、翌明治9年(1876)に英語とキリスト教の講師として招かれたのが、カナダ人のメソジスト派宣教師であったチャールズ・サムエル・イビーだった。イビーは同行した平岩愃保(のちに甲府教会牧師として赴任)とともに、午前中はギゾー『欧羅巴文明史』やミル『代議政体論』といった著作の講義、午後はマタイ伝などのキリスト教の説教・講義などが行われた。イビーは講義のかたわら、山梨県内の伝道活動を行い、イビー招聘は山梨県におけるキリスト教布教のきっかけにもなっている。
近藤はこのほかにも多くの講師を呼び、また近藤の息子ふたりも新島襄の同志社で学んだのちに講師に加わっている。こうして蒙軒学舎は充実した教育内容を誇るようになり、近隣だけでなく、静岡などからも生徒が訪れ、最盛期には450人ほどの生徒を抱えていたとされる。そのなかにはのちに詩人として知られる北村透谷(神奈川県出身)も在籍していた。
近藤の蒙軒学舎は、公教育や各種学校の充実とともに人気が衰えていき、明治21年(1888)に休校となってしまうが、充実した教育内容を誇る私塾として、教育機関が未整備の時代のこの地域の教育を担い、多くの人材を輩出した。近藤が蒙軒学者設立の目的として掲げた、「修身立志の道を自得せしむるにあり」とした教育精神は現在でも地域に受け継がれている。
【蒙軒学舎設立の主意】
「本塾設置ノ主意ハ多分ノ学資ヲ要セスシテ学ヲ磨キ智ヲ開クニ在リ。蓋シ弊郷ハ国ノ南隅ニ僻シ、其学習ニ志シ有ル者モ資力ノ乏シキカ為メニ、往々其意ヲ果ササル者アリ。或ハ其資力ヲ有スルモ学問ノ基礎未ダ全ク備ワラズシテ、浪リニ笈ヲ京地ニ負ヒ、為ニ過分ノ学資ヲ失ヒ、其身一モ為ル所ナクシテ、徒ニ遊冶ニ陥ル者モ亦尠カラズ。本塾夙ニ茲ニ見アリ後進諸輩ノ為メニ、漢英数ノ学科ヲ授ケ、略ボ修身立志ノ道ヲ自得セシメ、而シテ以テ其後来ヲ謬ラザラシメントス。其校則教科書ノ如キハ下文ニ就イテ之ヲ知ルベシ」
【蒙軒学舎設立の主意ノ現代語訳】
「蒙軒学舎の設立の目的は、多くの学費を必要としないで、学問を進めて知識を深めることにあります。思いますに、この地域は県の南のはじっこにあり、学問をしたい者がいても、学費がならないために、その意志を果たせない人がよくいます。あるいは、学費があっても、学問の基礎を身に着けないうちに、不用意に荷物を持って都会に出てしまうことで、学費を余計にかけてしまったり、その身に何も学問を身につけずに、むなしく遊びにふけってしまう人も少なくありません。蒙軒学舎は、早くからここに目をつけ、若い人たちのために、漢学、英語、数学の授業を開いて、自らの行いを正しくして将来の目的を定めることを自分で出来るようにして、将来失敗しないようにすることが目的なのです。その学校のきまりや教科書については、このあとの文章をお読みください。」
蒙軒学舎で使用された罫紙印刷用の木版 近藤浩一路記念南部町立美術館蔵
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