飯田 蛇笏
プロフィール 年表 エピソード1 エピソード2
・プロフィール
【人物の氏名】
飯田 蛇笏
いいだ だこつ
Iida Dakotsu
【生没年】
明治18年(1885)生まれ 昭和37年(1962)死去
【出身地】
山梨県東八代郡五成村(笛吹市)〈峡東地域〉
【パネルの言葉を残した背景】
『ホトトギス』に掲載された、飯田の29歳の時の代表作とも言われる作品。郷土山梨の山峡の風景を感じさせられる。この句を刻んだ句碑が、甲府市の山梨県立文学館(芸術の森公園)に建っている。
【人物の解説】
近代日本の俳壇を代表する俳人。東八代郡五成村(現在の笛吹市境川町)の飯田家長男に生まれる。本名は武治、別号は山廬。県尋常中学校(飯田在学中に山梨県中学校・山梨県立第一中学校に改称、のちの県立甲府中学校、現在の甲府第一高校)、京北中学校への転入学を経て早稲田大学へと進学。中学時代は石橋湛山、内藤多仲、中村星湖らと同時期に在学。中学から大学にかけて詩作や句作に励み、高浜虚子らの雑誌「ホトトギス」などで活躍するが、明治42年(1909)に郷里境川村へと転居。以後、郷里で養蚕などの家業を営みながら詩作に励んでいく。「キラヽ」(のち『雲母』に改題)の中心となり、俳壇の活性化にとりくみ、自らも昭和7年(1932)に句集『山廬集』を刊行する。飯田の没後、四男の龍太が『雲母』を主宰し、山梨県の俳壇の発展に努めた。
・年表
年代 |
出来事 |
明治18年
(1885) |
東八代郡五成村(現在の笛吹市)の飯田家の長男に生まれる |
明治23年
(1890) |
清澄尋常小学校(現在の境川小学校)に入学 |
明治27年
(1894) |
「もつ花におつる涙や墓まゐり」の句をつくる |
明治31年
(1898) |
山梨県尋常中学校に入学、早稲田吟社に入る |
明治35年
(1902) |
山梨県立甲府第一中学校(在学中に改称)を中退 |
明治36年
(1903) |
京北中学校に転入学 |
明治37年
(1904) |
早稲田大学に入学 |
この頃 |
若山牧水、北原白秋らと親交 |
明治41年
(1908) |
高浜虚子に師事、高浜の俳諧散心に参加 |
明治42年
(1909) |
早稲田大学を中退し、境川村の実家に帰郷 |
明治43年
(1910) |
若山牧水の「創作」に俳句を発表 |
明治44年
(1911) |
結婚 |
大正元年
(1912) |
河東碧梧桐と会う |
大正3年
(1914) |
『ホトトギス』の雑詠欄で巻頭に掲載され、以後俳句創作を本格的に再開
「芋の露連山影を正うす」の句をつくる |
大正4年
(1915) |
愛知県幡豆郡家武村(現在の西尾市)で創刊の『キラヽ』の主選を担当 |
大正6年
(1917) |
『キラヽ』の主幹となり、『雲母』に改題 |
大正9年
(1920) |
四男の龍太が生まれる |
大正14年
(1925) |
『雲母』の事務局を甲府市に移す |
昭和5年
(1930) |
『雲母』の事務局を境川村の飯田家に移す |
昭和7年
(1932) |
第一句集『山廬集』を雲母社から刊行 |
昭和8年
(1933) |
「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」の句をつくる |
昭和15年
(1940) |
朝鮮半島から中国大陸を旅行 |
昭和16年
(1941) |
次男數馬死去 |
昭和19年
(1944) |
長男聰一郎戦死 |
昭和20年
(1945) |
『雲母』休刊 |
昭和21年
(1946) |
『雲母』復刊
抑留中の三男麗三死去 |
昭和22年
(1947) |
四男の龍太が『雲母』の編集に加わる |
昭和28年
(1953) |
山梨県文化功労者賞を受賞 |
昭和37年
(1962) |
逝去 |
昭和38年
(1963) |
舞鶴城公園内に文学碑が建てられる |
平成元年
(1989) |
山梨県立文学館が開館し、飯田蛇笏の展示コーナーが開設される |
平成4年
(1992) |
舞鶴城公園内の文学碑が芸術の森公園内に移転、「雲母」終刊 |
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・エピソード1
【山廬で吟じた半世紀余】
飯田蛇笏は、その俳人としての人生の大半を、境川村(出生時は五成村、現在の笛吹市境川町)の生家を「山廬」と称して、そこを拠点に多くの作品を生み出していった。
飯田は、旧制甲府第一中学校(のちの甲府中学校、現在の甲府第一高校)を中退して、東京の京北中学校に転入学し、念願の上京を果たす。そして、明治37年(1904)に早稲田大学英文科に進学し、小説や新体詩、俳句の創作に励んでいく。
飯田は旺盛な創作や、句会を重ねるなか、早稲田吟社に参加して俳人高浜虚子を知る。高浜の主宰する鍛錬句会でもある「俳諧散心」にも参加し、1ヶ月間毎日開催された明治41年(1908)8月の会では、1ヶ月間の厳選55句が『ホトトギス』に掲載され、飯田は最年少ながら2句が選ばれている。
こうして中央俳壇で頭角を現しつつあった飯田だったが、この直後の高浜の句作活動の「中断」や、おそらく飯田家の都合もあり、この翌年の明治42年(1909)に、早稲田大学を中退して故郷の山梨の境川村へと帰郷する。帰郷後も自宅を「山廬」と称して句作に励み、高浜の俳壇復帰により、飯田は雑誌『ホトトギス』へ投句を開始し、同誌の代表的な俳人となっていく。高浜はある時、飯田を評してこう述べている。
「君が去年の夏、暫時出京して俳諧散心などに列席した時の句は余りに強く私を刺激するものは見当たらなかつた、が又甲州の山廬に戻つてからの句は再び惻々(そくそく)として人に迫る底のものとなつた。」
(高浜虚子「進むべき俳句の道―雑詠評―」の「飯田蛇笏」の項(『ホトトギス』第19巻第7号 1916))
『ホトトギス』での活躍の一方で、大正4年(1915)に愛知県幡豆郡家武村(現在の西尾市)で創刊された『キラヽ』にも参加し、2年後には同誌の主幹となり『雲母』と改題、大正14年(1925)に発行所を甲府市愛宕町に移転、昭和5年(1930)に境川の「山廬」飯田宅へと移転させ、飯田の活動の基盤となっていくとともに、自らや後進の研鑽の場となっていく。こうした創作活動を積み重ね、昭和7年(1932)に飯田の第一句集である『山廬集』が刊行される。飯田の俳人としての前半生の集大成とも言うべき『山廬集』には、少年時代から刊行の前年までの作品1,775句が収められ、その創作の歩みをみることができる。その序文に、飯田はこのように述べている。
「なにが世の中で最も地味な為事かといつて、俳句文藝にたづさはるほどな地味なものは外にあるまいと思ふ。芭蕉の生活をながめてみても、彼が自家の集を生きやうのうち一つさへ出版してゐなかつたといふことを思ふても、実にうちしづんだ極端なものである。しかしながら、そのおもてにあらはれたところは其麼果敢なげな深沈たるものであつたに違ひないにしても、彼の心のゆたかさに想ひ及ぼすとなると、必ずしも外面に打ち見られるやうなものではなかつたと思ふ。私は少年の頃からそれを古金襴を見るやうな気持でながめて来た。いつしか、自分の生活がその古金襴のくすんだ微光を追ふて、俳句生活に入つてゐることが自覚された。(以下略)」
飯田の「古金襴のくすんだ微光を追ふ」視線は、山峡の自然に照らされて、『山廬集』にも収録された代表作である「芋の露連山影を正しうす」をはじめとして、数々の作品を生み出していった。
飯田の作品やその生涯については、県立文学館(甲府市貢川)に展示されており、その魅力について学ぶことができる。また、飯田は自らの句碑などが建てられることを好まなかったとされるが、県立文学館の庭園である芸術の森公園内には、代表作「芋の露連山影を正しうす」を刻んだ文学碑(建碑当時は舞鶴城公園内)を見ることもできる。
芸術の森公園に建つ文学碑
・エピソード2
【似通った経歴を歩んだ中村星湖との交流】
飯田蛇笏と同じく、山梨県を代表する文学者である中村星湖とは、中村の方が1歳年長であるものの、県立甲府中学校(彼らの在学時は、山梨県尋常中学校・山梨県中学校・山梨県第一中学校と改称、現在の甲府第一高校)から早稲田大学英文科に進学というルートをたどっており、両者ともに学生時代から文壇で活躍するところまで共通しているにも関わらず、学生時代はおろか、戦前を通じて飯田・中村の交流は無かったという。
ふたりが交流を持ったのは戦後になってから、中村が地元の河口村(現在の富士河口湖町)の道端にころがっていた石を気に留めて、芭蕉の句碑ではないかと飯田に調査を依頼したことがふたりの初の交流であるとされる。果たしてこの石は芭蕉の句碑で、「芭蕉翁」と芭蕉の「雲霧のしばし百景をつくしけり」の句が刻まれていた。
飯田により芭蕉の句碑とわかったこの路傍の石は、中村の尽力で綺麗にされたうえで、河口湖畔の景勝地である産屋ヶ崎へと移された。以来、飯田と中村は交流を結び、郷土の文芸界の重きを成す存在として、山梨県の文化的発展に尽力していった。
河口湖畔産屋ヶ崎に建つ芭蕉句碑
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