資料名 |
時代 |
所有 |
指定 |
資料解説 |
伝記 若尾逸平(若尾資料) |
大正3年
(1914) |
山梨県立博物館 |
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若尾逸平の没後1年に際してその90年あまりの生涯を綴った伝記。誕生から逝去まで編年で記した前半と、関係者の思いで語りやエピソードを収録した後半からなる。内藤文治良編。若尾は、食にはこだわらず、なんでも「甘めぇ、甘めぇ(うめえ、うめえ)」と食べたとされるが、餅だけは好んで食べ、晩年まえ義理の娘が特別に調理した餅をいくつもたいらげたとされている。 |
過去六十年事蹟 |
明治40年
(1907) |
個人 |
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雨宮敬次郎が還暦を記念して刊行した自叙伝。広軌鉄道論から軽便鉄道普及論にいたる雨宮の鉄道をめぐる構想と哲学が語られているほか、多くの先駆的な事業への取り組みについて書き残している。栄光だけでなく、無一文、肺病、疑獄など、雨宮の波乱の生涯について自ら赤裸々に綴っている。雨宮は民間機械製粉を最初に実現した人物で、現在のオーマイブランド(ニップン)につながる泰靖社を設立した。 |
ビールの広告(甲州文庫) |
明治7年
(1874) |
山梨県立博物館 |
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昭和4年(1929)に開業した東武日光線と沿線の観光情報を記したもの。根津嘉一郎の経営となった東武鉄道は、明治40年(1907)の利根川架橋を契機に、東京と北関東を結ぶ大動脈としてわが国を代表する民営鉄道へと大きな発展を遂げた。 |
甲武中央篠井線旅行案内(甲州文庫) |
明治38年
(1905) |
山梨県立博物館 |
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ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー(現在のJTBの前身にあたる)が発刊していた観光雑誌。季節の旅行コーナーに、昭和4年10月1日の「東武鉄道日光線の全通」について掲載されている。記事中に省線(現在のJR日光線など)との比較が記されているように、国際観光地・日光への輸送需要を競う当時「日光戦争」と呼ばれた速度・サービス競争の幕が開けた。 |
旅行の友 創刊号(甲州文庫) |
昭和6年
(1931) |
山梨県立博物館 |
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東武鉄道が発行していた日光を目的地とした修学旅行用パンフレット。旅行の心得など教育指導的な記事とともに、杉並木や東照宮、中禅寺湖などの日光の名所の概説が記されている。このようなパンフレットの刊行からも、東武と省線(のちの国鉄)の旅客需要争奪戦である「日光戦争」の激しさがうかがえる。 |
国鉄監修・交通公社の時刻表 |
昭和48年
(1973) |
個人 |
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阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の沿線を描いたすごろく。梅田をふりだしに、現在の阪急宝塚線および箕面支線の各駅の名所をめぐり、宝塚パラダイスがあがりとなっている。ふりだしの梅田を出ると、すぐに「箕面有馬電車唱歌」にも歌われている官営鉄道(東海道線)をオーバークロスする様子が描かれている・また、駅に停車すると、それぞれの名所の特徴に応じて、時折ユニークなペナルティに出会うようになっている。 |
甲府繁盛寿語呂久(甲州文庫) |
明治36年
(1903) |
山梨県立博物館 |
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明治時代の甲府とその近郊の商家や銀行などをめぐるすごろく。明治35年版のものは、常盤町の第十銀行をふりだしに若尾銀行があがりとなっており、明治36年版はその逆となっている。 |
若尾逸平ミニチュア |
明治〜大正時代 |
山梨県立博物館 |
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甲府市愛宕山に若尾の米寿記念に建てられた寿像(写真小川一眞、原型河村嘉祥、鋳造漆原新七 『若尾逸平』より。現存せず。南アルプス市に再建銅像が所在。)と同様のミニチュア。像からも小柄な老人であること、右足を踏み出すポーズから、溢れ出る行動力が想起される。明治40年(1907)の銅像建設時、あるいは大正時代の若尾公園の造営時の記念品であろうか。 |