資料名 |
時代 |
所有 |
指定 |
資料解説 |
武田晴信像(複製) |
室町時代(16世紀) |
山梨県立博物館 |
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高野山における甲斐国の宿坊であった持明院に伝わる武田晴信(信玄)の肖像画。 |
小桜韋威鎧 兜・大袖付(復元) |
− |
山梨県立博物館(原資料:菅田天神社) |
原資料:◎ |
甲斐源氏の祖源義光が着用したと伝えられ、武田家歴代の家宝として受け継がれてきた楯無鎧の復元品。紋鋲などに鍍金が施されている。 |
武田晴信感状(三井家資料) |
弘治3年
(1557) |
山梨県立博物館 |
市 |
弘治3年7月の小谷城(長野県小谷村)の攻略に戦功のあった三井助七郎に対し、武田晴信がその働きを称えて出した古文書。晴信は川中島で越後の長尾景虎(上杉謙信)と対峙する一方、別方面での勢力拡大にも成功し、長尾方の動きをけん制した。 |
川中島合戦図 |
江戸時代 |
山梨県立博物館 |
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永禄4年(1561)の第4次川中島合戦を描いた図。手前に八幡原での武田・上杉両軍の戦闘を、奥には海津城と、妻女山を攻めようとする武田の別動隊を描いている。信玄と謙信の一騎打ちのシーンは描かれていない。 |
関東下知状(複製) |
応長元年
(1311) |
山梨県立博物館(原資料:大善寺) |
原資料
○ |
焼失した大善寺の古文書を確認するため、鎌倉幕府が深沢郷(甲州市)の地頭である逸見氏、武田氏、野呂氏に尋問し、執権金沢貞顕が改めて寺の運営を承認した古文書。 |
『長寛勘文』写本(複製) |
江戸時代
(17世紀) |
山梨県立博物館(原資料:熊野神社) |
原資料
◇ |
三枝守政による八代荘乱入をめぐって争われた熊野社と甲斐守藤原忠重との裁判に関する勘文(意見書)をまとめたもの。裁判では、熊野社と伊勢神宮の祭神が同体であるかが問題となり、熊野社による八代荘支配が認められ、忠重ほかが処罰された。 |
銅製経筒及び付属品(複製) |
建久8年
(1197) |
山梨県立博物館(原資料:個人蔵) |
原資料
○ |
江戸時代に秋山経塚(南アルプス市)から発見された経筒ほか。源光経一族が施主となり作成したもの。甲斐源氏の秋山光朝の供養のため奉納されたと考えられている。 |
甲越信戦録 |
天保7年
(1836) |
山梨県立博物館 |
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甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争った川中島の戦いについて、戦場となった信濃川中島の住人による調査・考証へて記された書物。展示部分は、永禄4年(1561)9月の合戦の前日、謙信が武田方の海津城から立ち上る炊飯の煙を見て、武田軍が動くと判断したという有名なエピソード。 |
穴山信君判物(南松院資料) |
戦国時代 |
南松院 |
県 |
穴山信君が南松院(身延町)に対し、末寺松岳院(南部町)や茶園の管理等を怠りなく行うよう申し付けた古文書。禅宗では儀礼などで茶を用いることがあり、寺院で茶園を経営していた。また富士川流域では茶の栽培が盛んであったことも知られる。 |
孫子の旗(復元品) |
室町時代 |
山梨県立博物館(原資料:恵林寺) |
原資料
○ |
武田信玄が戦陣で使用したと伝わる旗。古代中国の兵法書『孫子』の文言が記されており、「風林火山」で知られる。 |
諏訪神号旗(復元品) |
室町時代 |
山梨県立博物館(原資料:恵林寺) |
原資料
○ |
武田信玄が戦陣で使用したと伝わる旗。信玄が軍神である諏訪大社(長野県)を崇拝していたことがわかる。 |